Friday, November 16, 2007

Grady's Letter to Senator McCain

Just in from Grady Glenn:
A friend of mine who is working for the 2008 John McCain Presidential Campaign told me that he'd personally deliver to the Senator any message, so long as it was polite and under 300 words. So here's what I sent. Barring some sort of late-life epiphany or divine intervention, however, it is very unlikely that Senator McCain will heed my advice.

Senator McCain,

On the behalf of the Morrison family, I would like to wish you the best of luck in the 2008 campaign. However, as a Republican in the tradition of Eisenhower and Goldwater, in order to pledge my support for your candidacy, I humbly request that you make the following three adjustments. First, fire from your foreign policy staff Henry Kissinger, who has done this country (and much of the world) only harm for the last 40 years. Second, fire from your staff all those associated with the American Enterprise Institute (namely, Kristol, Kagan, Cohen, and the other very un-conservative radicals who have advocated the recolonization of the Middle East). And third, choose as your running mate Senator Chuck Hagel, who is one of the few truly conservative patriots left in our Congress. If you can meet these three conditions, I, along with a huge portion of the American population, will pledge full support for your campaign.

Best of luck,
Grady Glenn

Saturday, November 10, 2007

"At North Farm"

John Ashbery`s "At North Farm," read by Beholdmyswarthyface at Wakeijuku in Tokyo.

Tuesday, November 6, 2007

東京

文学作品に表れる東京の地理を通して近代を解釈する。
そのフィールドワーク編。

新富町駅で降り、あっという間に八丁堀、茅場町を過ぎ、隅田川沿いを延々と、
浅草吾妻橋まで歩いた。。。。。。。。。
でも、「隅田川テラス」を歩いていくのは気持ちよかった。

浅草で休憩してから、上野までさらに歩いた。
脚が疲れた。

ポストモダンでは、頭の中の地図と地上の地図に大きなギャップがあることが指摘されます。
地下鉄ばかり使っていると、地上の地図を描けなくなる。

永井荷風の「隅田川」には、明治のイデオロギー(西洋化)に反発する下町のイデオロギー(江戸の文化の名残)という構造がみられる、といわれる。
柳橋の船宿の風景、たくさんの橋の名前に見られる江戸の名残、安藤広重が描いた隅田川の風景画、隅田川の東側の向こうに見えたであろう富士山、、、
もうちょっと考えよう。

Sunday, November 4, 2007

ショスターコヴィッチ


昨日、文化の日、日比谷公会堂でのショスターコヴィッチ交響曲コンサートに行ってきた。
サンクトペテルブルグ交響楽団、指揮井上道義。

連れて行ってくれたマミさんは、指揮者の幼なじみ。
待ち合わせ場所に行くと、マミさんがとてもお洒落な身なりで、わたしのボルテージは一気に上がった。

日比谷公会堂に初めて入ったけど、古くて素敵だった。
チケット代を安くしてたくさんの人にクラシック音楽を聴いてもらうために、あまり改装にお金をかけないらしい。
(私達が最初に座った端のほうの席は、なんと傾斜してました。)
関東大震災後、「伝説の東京市長」(らしい)後藤新平によって計画され、安田善次郎(オノ・ヨーコの曾祖父)の個人的寄付によって、建設されたようだ。

ショスターコヴィッチは、当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていた、とか、表面上はソ連の芸術政策に融合した、とか、でも、昨日の演目は彼の最初の交響曲1、2、3番で、前衛的なもの。
とか話していると、

マミさんのご主人が、「教養は先月転んでおっことしてきちゃったからな」と。
我々が声をそろえて「へえー」と言ってしまうと、
マミさんがあわてて、おじさんのギャグを解説してくれた。

演奏は、大変よかったです。
指揮者の激しさは、写真の通りでした。

Saturday, November 3, 2007

研究計画


谷崎潤一郎
(1886*1965)は、存命中にはその評価を巡って多くの議論を呼ぶ人物であったが、近年では二十世紀の中でも卓越した小説家とされている。1984年にDonald Keeneは、「時代を経ても褪せることなく、世界に名声を誇る存在として受け入れられる作家がいるとしたら、それは谷崎であろう」と言ったが、彼が予言した通りに、多くの谷崎作品の翻訳や批評が活発に行われている。批評の多くが、谷崎と西洋の関係、作品中の女性の扱い、母性願望とマゾキズムのテーマ、そして晩年の「東洋的な」美学を論じており、非常に重要だと思われる現象に注目しているものは少ない。それは、谷崎の特に初期及び中期の作品が、その核心部分において、文学についてのサブテクストであるということである。「刺青」(1911)から「美食倶楽部」(1917)、「青塚氏の話」(1926)、「蓼喰う虫」(1929)まで、初期から中期の作品は共通して、芸術とは何か、芸術家の仕事とは何か、そして伝統の役割とは何か、という問題を扱っている。上智大学での修士論文では、谷崎の初期及び中期の作品への様々な影響、つまり江戸時代の文学の伝統を始め、日本及びヨーロッパの自然主義、西洋のモダニズム、日本の古典文学などを考察し、そしてそれら初期・中期の作品が、いかにして文学についてのディスコースとして見ることができるのかを示していきたいと考えている。そのために以下の五つの方法で谷崎作品を見ていくこととする。


まず、第一の方法では、繰り返される逃避というテーマ、つまり平凡からの避難場としての文学について考察する。これについては、明治晩年に支配的になった「リアリズム」に対する谷崎の反応をみることによって明らかになる。「秘密」(
1911)や「青塚氏の話」といった初期の作品で谷崎は、日本の自然主義者のリアリズムによって定義される権威というもの、あるいは彼らの考える「現実」までをも問い直した。自然主義者達が日常生活という表面的な現実を忠実に記録しようとしたのに対して、谷崎はより内面的な現実を求め、想像や幻想、欲望といったものに関して書き、「外面的な現実」はそれらに従うものにすぎないとした。この逃避というテーマは、言文一致運動に対する谷崎の疑問にもあらわれている。言文一致運動とは、文学から、文語や雅文の優雅さや格調を取り除こうという運動であったが、それらは谷崎が書く上で高く尊重しているものだった。また「日本への回帰」と言われる現象からもこのテーマについて考えることができると考える。それは「回帰」と言うよりはむしろ、遠い昔の日本という新しい「エキゾチック」な領域の発見であり、かつて彼にとっての西洋が「エキゾチック」であったのと同様に、自分の個人的な幻想を投影することのできる舞台を得たのであった。

  第二に、「陰影礼讃」(19334)についてであるが、これは谷崎の美学に関する最後の宣言と誤解され、またその作品中の美的傾向は、谷崎の、そしてより広く「東洋的美学」を代表するとみなされている。しかしながら、注意して読み、また他の作品の文脈も考え合わせてみると、「陰影礼賛」は、一つの美学論のパロディであり、また永井荷風が描いた古臭く年老いた人物像を利用した自己のパロディとも考えられる。「陰影礼賛」で賛美される様相とは全く異なる特質が他のさまざまな作品に見られるように、谷崎の全作品を検証しなければ彼の美学について総括することはできない。これを示すために、文学論としての作品とも言える「少年」(1911)、「金色の死」(1914)など、「陰影礼讃」で説かれる「東洋的な」陰影の美学とは相反する立場に立つ作品を考察していくつもりである。

  谷崎の美学のディスコースが展開していくにつれて、彼の理想の女性像も変化していく。運命の女から飾りの人形、亡き母、そして屏風の後ろに隠れる平安の貴族女性まで、[1]谷崎の永遠に変化し続ける理想の女性像と、様々な形で試された文体や手法との間には直接的な繋がりがある。第三の見方においては、この理想の女性像と理想の美学との形の関係を考察していく。

 四つ目には、相矛盾しているように思われる、プラトンのイデア論と江戸文化の官能主義の谷崎への影響、そしてそれら二つがいかに谷崎作品の中で衝突しているかを注目する。一方は感覚的で、特定のもの、もう一方は不変的で、究極の形式、これら二つの世界は、谷崎の小説の中心をなすものであるが、未だに体系だてて研究されてはいない。この二重性が最も著しく表れている「金色の死」、「早春雑感」(1920)、「アヱ゛・マリア」(1923)、「青塚氏の話」、「卍」(1928)を注目していく。

最後に第五の見方では、「芸術創造のメタファー:彫物師、映画監督、料理人、道化」というタイトルのもとに考察していくこととする。この見方もまた「文学についてのサブテクスト」という主題に繋がっていくものである。「私小説」を嫌っていると考えられていた谷崎が、本質的には、芸術家としての彼自身を主人公として登場させる物語を繰り返し書いていることを明らかにしたい。このテーマを扱う「幇間」(1911)、「異端者の悲しみ」(1917)、「美食倶楽部」、「刺青」、「青塚氏の話」などの作品において、小説作品の主人公としての芸術家達は、芸術創造と芸術家の仕事についての根本的な問題に取り組み、それぞれが異なる解釈や可能性を示しているのである。

次に詳しく述べるように、上智大学は、優れた教授陣とグローバルな視点に立ったジャパニーズ・スタディーズのカリキュラムを備えており、以上の研究計画を達成するのに理想的な環境であると言える。その教授陣の講座からなるカリキュラムは必ずや、谷崎文学だけでなく、広く日本文学、日本文化の知識を深めることになると考える。

大学変更について

私はこの一年半、文部科学省奨学生を得て、早稲田大学千葉俊二教授の指導の下、上級者対象の日本語クラスに参加し、個人研究を行い、いくつかの大学院のゼミに特別研修生として参加してきました。この間、プレゼンテーションやレポート提出を含む演習授業から講義や教授との面接まで、全てのことが日本語で行われました。それによって、日本文学を研究するのに必要な文献を取り扱い理解するのに十分な日本語能力を身につけました。また、文学批評にふさわしい文体で書くことも、かなりの程度までできるようになっていると言えます。しかしながら、早稲田大学大学院教育学研究科のカリキュラムは日本文学を研究する外国人学生に対応しているものではなく、将来的に自分の母語を「教える」ことを目指す日本人学生のために編成されています。いくつかの「国語教育学」や教育学の科目を受講することが修士課程修了には必要です。よって、この課程には外国人学生がほとんどおらず、いるとしてもごく僅かです。

将来アメリカの研究機関で仕事をしたいと考えている外国人留学生としての私の願望は、早稲田大学「国語教育学」専攻の課程で研究する学生達とは大いに異なります。よって私はこの春頃より文学、芸術、文化そのものによりグローバルな視点から研究できるカリキュラムを探していました。そして、Father*Currieの長年の研究仲間でもある、以前の私の指導教官Anthony*Chambers教授に相談すると、上智大学で研究することを勧められました。千葉教授も、早々に昨年より私が早稲田大学大学院国語教育学専攻に入学して日本語で修士論文を書くことの有益性について懸念を示しておられました。そしてその代わりに論文を英語で書くことのできる大学の課程に入ることを勧められました。私は同意しましたが、学術的な日本語技能が衰えてしまうことが心配が残ります。その能力を保つために外の学部の日本語で行われるゼミや授業にも聴講したいと思っております。

今日の日本文学研究者は、狭い専門性だけをもった前時代の研究者とは異なる、より広く、文学だけにとどまらない歴史、文学理論、国際関係、哲学、宗教などに関する「グローバル」な理解をもつことが求められます。私が見てきた大学の中でも、国際的な名声のある上智大学のジャパニーズ・スタディーズ・プログラムが、最もグローバルな視野に立つカリキュラムを備えていると言え、私が研究する場として適していると考えます。上智大学の評価はアメリカでも非常に高く、日本で修士号を取得したあとにアメリカの大学で博士課程に進学したいと考えている私にとって、それは最も重要なことと言えます。このカリキュラムに加え、上智大学には世界に誇る日本文化や日本文学の研究者がいます。また、上智大学が発刊する学術雑誌『Monumenta*Nipponica』は、世界の日本研究の場で著名であり、いつか何らかの形で参加できることを希望しています。そして最後に、上智大学図書館の蔵書は、アメリカのどの図書館に比べても効率良く私の研究分野の資料を見つけるのに対応していると言えます。また日本語のみならず私の研究に関わる西洋言語の資料も多く含んだ非常に充実したものであることも重要な理由です。たとえ上智大学内で入手できない資料があったとしても、その東京の中心に位置する校舎からであれば、どこへでも便利に資料を求めに行くことが可能です。以上の理由により、そして以下に述べるように、上智大学は私の専門の研究をするのに理想的な場であり、第一志望とします。

森鴎外、夏目漱石、永井荷風などの小説を読んだ者であれば誰もが周知の通り、近代日本文学を研究する全ての者にとって漢文の講座は必要です。“Interpretations of Modernity”のような批評理論の講座も私の文学や文学批評に関する知識を深めるのに必要であり、それらの資料を読み込むことは、私が論文を書くための批評技術に磨きをかけることができると思います。特に近代及びポストモダンの批評の大部分は“self-referential*art”という概念と関連しているためです。また、日本の視覚文化に関する深い知識も、谷崎潤一郎研究に多くの有益な情報を与えてくれます。谷崎が視覚媒体に強く惹かれていたことはよく知られており、ある時点で映画の仕事に従事するために執筆活動を断念しかねないほどでありました。これらの講座からなるカリキュラムを備えていることに加え、Angela*Yiu助教授のいる場で研究できることは大変大きな利益となります。Yiu助教授は日本近代文学の二大巨匠、森鴎外と夏目漱石の専門家であり、その二人の作家は私の研究する谷崎に少なからぬ影響を与えていると私は考えています。また、私の現在の関心は小説ですが、James*Shields教授の下で詩の研究を再開することも楽しみにしています(アリゾナ州立大学でAnthony*Chambers教授の下で研究していたのは詩歌でした)。YiuShields、両氏とともに二年間を過ごすことは貴重な経験となることは間違いありません。そして、加えると、現在私が住む和敬塾という学生寮には、上智大学グローバル・スタディーズの課程で正規学生として学ぶ友人達がいます。彼らのそのプログラムに対する評価は非常に高く、来年度より彼らとともに研究を始めることができることを希望しています。

将来には、私はアメリカで大学教授として日本近代文学を教ることを目標としています。しかし、アメリカの研究機関の博士課程に入学する前に、さらに二年間上智大学で研究を続けることが必要です。それは主要な小説家の作品についての論文によって修士号を取得するためであり、それによって私が以前に書いた詩人高橋新吉についての修士論文を補完することになります。また、この二年間で、時間が許すならば、谷崎の短編小説の翻訳、また詩歌の翻訳にも取り組みたいと考えています。




[1] Noriko Lippitは、Reality and Fiction in Modern Japanese Literature.の中で、理想の女性像をこれら四つに分類して論じている。

Thursday, November 1, 2007

OFF-STAGE GHOST DANCES

Just in from Cniva Albinus:
With my graduation thesis deadline fast approaching, I'm currently considering some possible topics, one of which I'll post here as an abstract. I might get rid of the first paragraph altogether and scrap the idea of using Walter Mead's definition of the term "ghost dances." I still haven't decided whether it's entirely appropriate or not. Another problem is that the two works (Ishikawa Jun's “Meigetsushu”『明月珠』 (1946) and Nagai Kafū's “Ameshōshō”『雨瀟瀟』 (1921)) are separated by a space of 25 years -- a fact which might make it difficult to come to any meaningful conclusions about the works. At any rate, here it is:
According to American historian and senior fellow at the Council on Foreign Relations Walter Russel Mead, the term “ghost dance,” while originally referring to the Native American religious movement in the 1890s, can be seen as the more general phenomenon of any nationalist or nativist movement that under certain historical conditions arises almost automatically as a resistance to a set of external pressures, whether in the form of invading imperial armies or calls for Westernization, internationalism or “globalism.” In order to promote a unified resistance to these external pressures, these “ghost dance” movements are often constructed upon the dubious grounds of “internal”national and racial mythologies that are intended to counter the “outer” ideologies. This same drama, Mead argues, has been played out in various theaters around the globe since the 19th century — from China and Japan to Latin America, Ireland, Africa, and even within the United States. More importantly, because they are formed upon unstable grounds, these “ghost dances,” Mead argues, invariably collapse and are defeated. Mead points out the case of Japan’s “ghost dance”-- the period between 1930 and 1945 that saw the rise of a highly jingoistic nationalism, the spread of empire, and a resistance to Western imperialism -- as a prime example, as it ultimately ended in total defeat.

But while this more militant version of the Japanese “ghost dance” was being played out, another one was simultaneously being performed by writers such as Nagai Kafū 永井荷風 (1879-1959) and Ishikawa Jun 石川淳 (1899-1987), who, disillusioned with the jingoistic ideologies of the day, created a cultural revival of their own. As William Tyler points out, “there are many Japans,” and deciding which parts of the tradition one wishes to revive makes all the difference. For Kafū and Ishikawa, retreat into art – particularly into the old plebeian Edo arts — was itself a form of resistance against both the uncritical Westernization that had gripped the country since the Meiji period, and against the nativist backlash to the Western imperial powers. By turning to the traditional arts of Edo — kyōka, haikai, ninjōbon, etc. — Kafū and Ishikawa were able to perform a highly effective and patently modernist “ghost dance” that significantly differs from Mead’s rather unnuanced understanding of the term. Kafū and Ishikawa created a movement that was “aesthetist” in the highest sense and that also served -- albeit often in code -- as a form of political resistance. For this paper I plan to explore this “off-stage ghost dance” phenomenon as it presents itself in Ishikawa Jun's “Meigetsushu”『明月珠』 (1946) and Nagai Kafū's “Ameshōshō”『雨瀟瀟』 (1921).