Tuesday, June 16, 2009

Some Thoughts On Ishikawa Jun's "On the Thought Patterns of the People of Edo"


This just in from Tommy Matsuzaki and his mother from the old country:
Dear Beholdmyswarthyface,

I showed your translation of Ishikawa Jun’s essay to my 87-year old mother, who’s from the old country. She wanted me to have you explain it to her in Japanese, her English not being so hot. We’d greatly appreciate anything that you could send along. Thx, Tommy Matsuzaki.

I’d be happy to help, Tommy Matsuzaki. The following is my attempt at an explanation. Please read it to your mother. Yours, Beholdmyswarthyface.

1.イントロダクション

『江戸人の発想法について』(1943)は石川淳が日本文学の近代化という大きな物語(metanarrative)へ疑問を投げかけた作品である。明治から始まった文明開化は、当然文学に至るまで激変を起こした。当時欧米で流行していた文学的観念や手法が丸ごと輸入され、それ以前存在さえしなかった技法(例えば、ミメーシス(模写)、レアリズム(写実主義)、科学的な描写などの19世紀的な文学要素)が次第に定着することとなった。近代国家の設立を背景に、坪内逍遥(1859-1935)などの文学の改革者は、人間の最も高尚な作業として文学の位置を上げようとした結果、江戸文学的な要素が次第に捨てられるようになった。

しかし石川淳にとって、この「日本文学の近代化」という物語は正しくない。むしろ彼にとって実際に近代的なのは明治以後に取り残された江戸の庶民文化だった。石川の視点では、この「江戸流の近代」のルーツをたどると唐時代(618-907)までさかのぼることになる。そして、唐時代に新しい文明を起こした精神は、すべての時代に一貫して流れていると言う。この精神は、江戸時代の明和 (1764-1772)と安永(1772-1781)に隆盛しており、そして天明(1781-1789)に至って満期に達したのである。

ところが、石川淳によるこの見解を鵜呑みにするわけにはいかない。『江戸人の発想法について』が書かれた当時の歴史的背景を十分に配慮しなければなるまい。1943年に日本は第二次世界大戦の最中で深刻な状況に陥っていた。そして、同年に西田幾多郎などの京都学派による「近代の超克」や「日本への回帰」をテーマにした協議が京都で開かれており、近代をいかにして超克できるのかという議論が日本全国で行われていた。石川淳はいくつかの作品で当時の日本におけるファシズム・国粋主義・帝国主義などの愚かさを批判しているが、一方でこのエッセーに見られる主張が当時の反西洋的な思想と重なる面があったことも認めねばならない。従って石川による江戸文化の見解もこの歴史的背景の中で見なければならない。

2.『江戸人の発想法について』の概要と解説

それにしても石川淳がいかに時代を先んじていたかということは、この作品によく示されている。おそらく誰よりも先に、後から出てきた構造主義、ポストモダン主義、ポスト構造主義などの理論の特徴を、彼は予見していた。しかし、当時において、石川が論じている概念を表す言葉はまだ存在しておらず、理論家や哲学者ではなかった石川は自分の発見を体系化することができなかった。それにしても、石川が何かを掴んでいたということは明らかである。では彼の新発見とは何だったのか。それは三つに分けることができる。一つは、「転換の操作」による間テクスト性、二つめは、自己という空白と作者の死、そして最後に、文学=交渉ということである。
一、 「転換の操作」による間テクスト性

『江戸人の発想法について』における最も大事なキーワードは「転換」である。「転換の操作」という技術をもって江戸の作家たちは古典文学を現代に応用する才能に長けていた、と述べられている。従って江戸文学を正しく鑑賞したいのであれば、この豊かな間テクスト性を十分に理解する必要がある。

言葉を変えながら、石川は「転換」をのべ10回以上使っている。そしてこの 「転換の操作」を四つの形式に分けると「見立て」、「俗化」、「やつし」、そして「俳諧化」となる。

まず、最初に「見立て」がある。「見立て」とは、一つの対象をそれと遠い関係にあるものになぞらえて表すことをいう。『江戸人の発想法について』では見立ての例はいくつか出てくる。例えば、お竹=江口の見立て、お竹を追及する男=西行の見立て、江口=普賢菩薩の見立て、お竹=普賢菩薩の見立て、南畝の半可通=王昌齢の見立て、云々。

次に、「俗化」がある。俗化は、良いものをダメにするという意味ではなく、むしろかび臭い古いものに新しい生命を吹き込むという技法である。石川淳が言うには「江戸人にあつては、思想を分析するよりも、それを俗化する操作のはうが速かつたからである」(174-5)。

第三に、「やつし」という技法がある。「やつし」とは、身分の高いものが卑しきものに変わって作中に登場することをいう。『江戸人の発想法について』の話では、大日如来が江戸の一般下女に降りてくる。

そして第四に「俳諧化」がある。「俳諧化」はカノン化された和歌を「俳諧」(つまり非正統な歌)に変えることを意味する。石川は、『万載狂歌集』の全体を「古今集の俳諧化」として見る。
二、自己という空白と作者の死

石川淳文学においてもう一つの極めて重要なキーワードは「韜晦ぶり」である。その言葉は『江戸人の発想法について』の中では直接言及されないが、示唆はされている。石川の使い方では「韜晦」とは作者自身の正体を作中に埋没させることを意味する。つまり、作者自身の「自己」を表面にさらけ出す私小説家とは反対に、天明狂歌の作家たちは、自己の隠蔽を目的としている。彼らに見習って石川も自分の作品で「名を放棄することから世界を築き上げ」ることを目指したとは言えるだろう(179)。
三、文学=交渉、石川の新歴史主義的な傾向

最後に、石川が、文学作品とは様々な交渉を通して生産されるものであり、批評家はその交渉を十分に理解しなければその作品を解釈することはできない、と主張している。石川は、どんな作品でも、当時の社会との交渉、あるいは伝統、つまり先行するテクストとの交渉から「離れたところではたちまち意味を失うだろう」と説明している(175)。ニュークリティシズム学派の人たちのように芸術作品を自律性のあるものとして考えることは大間違いだと石川は主張する。どちらかというと、石川の考え方は現代の新歴史主義に近いように思われる。彼らの見方では、文学はパリンプセストのようなものなので、表面を見るだけでは何も見えてこない。むしろ、ある作品が書かれたあらゆる過程(つまり、当時の社会および以前の伝統との交渉)を全体的に意識しなければならない。

10 comments:

Anonymous said...

Is it Stephen Greenblatt you have in mind when you speak of "negotiations"? Greenblatt’s theory of “negotiations” is developed in his book Shakespearean Negotiations, in which he “argues that works of art, however intensely marked by the creative intelligence and private obsessions of individuals, are the products of collective negotiation and exchange.” You might want to check it out, and compare with what Ishikawa Jun is saying.

-Jarvis32

Anonymous said...

Thanks, Beholdmyswarthyface. I'll show this to Mother. She'll be thrilled.

And how'd you find that picture of Mother taken in the relocation camp during the war? Have you been snooping through our photo albums? She was quite the looker, in her youth, wouldn't you say?

-Tommy Matsuzaki

Anonymous said...

Which one is Mother?

-Jarvis32

Anonymous said...

She's in the middle.
-Tommy Matsuzaki

Anonymous said...

Tommy Matsuzaki,

Why doesn't your mother just read it in the original, instead of having this Beholdmyswarthyface moron try and explain it to her?

-Ian Hogarth

Anonymous said...

Ian,

She tried. The original was too difficult. Have you looked at it? It's harder to understand than classical Japanese.

-Tommy Matsuzaki

Anonymous said...

Some other important themes you might want to explore in order to broaden your topic: metamorphosis, transmutation, particularly relating to the Noh theater.

-Christy Magdel

Anonymous said...

Christy is right. You ought to situate this essay in the broader context of "literary metamorphoses." You might want to take a look at Shirane's essay "Lyricism and Intertextuality," in which he discusses this subject of parody as a metaphor for the "mutability of existence."

-Jarvis32

misshannahminx said...

So I talked about you on my youtube vlog and I linked your site! I dig your blog. Youtube is down at the moment, so I can't link you, but my channel is: www.youtube.com/misshannahminx

And the video is titled, "Swedish Recognition"

Much love! xoxoxoxox,
Hannah

Anonymous said...

The kind of Edo no ryugaku seen in Ishikawa Jun and Nagai Kafu might be seen as a kind of counter-countermodernism.