Tuesday, July 7, 2009

Comrade Viacheslav on Takahashi Genichirō's 『John Lennon Vs. The Martians』


This just in from Surovyi Viacheslav:
二年前に高橋源一郎の本を読もうと思って、本屋で適当に二冊を買った。『さようなら、ギャングたち』というタイトルはどこかで聞いた覚えがあったので迷わずに本棚から取ったが、もう一つは奇妙なタイトルに引きつかれて選んだ。それは『ジョン・レノン対火星人』(1985)だった。『さようなら、ギャングたち』はすぐに読んだが、本屋であんなに面白がった『ジョン・レノン対火星人』は先週までに開けることはなかった。再び『ジョン・レノン対火星人』という不思議な題名を読んで、それなりな期待を抱いて本を読み始めた。ところが、どこまで読んでもジョン・レノンと火星人が戦うシーンもなければ、登場人物にはジョン・レノンと火星人の姿はない。最後まで読んでも、やはり数箇所を除けばジョン・レノンに関する記述はなく、題名の必然性はなかなか見えてこなかった。なるほど、『ジョン・レノン対火星人』はポストモダン小説であるため、タイトルの付け方にも一種のルールに対する反抗が読み取れると思った。小説のテキストには主人公の「私」は19世紀の小説を批判している箇所もあれば、高橋源一郎が書いた後書きにもそれを裏付ける言葉がある。
それは、奇妙なものでなければならなかった。考えうる限りバカバカしいものでなければならなかった。最低のもの、唾棄(だき)されるようなもの、いい加減なものでなければならなかった。この世の人すべてから、顰蹙(ひんしゅく)をかうような作品でなければならなかった。グロテスクでナンセンスで子供じみていなければならなかった。お上品な文学者全員から嘲(あざ)られるような作品でなければならなかった。(211頁、高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』講談社、2006)

なお、『ジョン・レノン対火星人』の元となった『すばらしい日本の戦争』という高橋氏の第一作は群像新人文学賞に落選したので、公式的に『さようなら、ギャングたち』でデビューすることになった。高橋さんは上記で引用した後書きではそれを次の通りコメントしている。
『ギャング』は、ある意味で、「文学」に満ちた作品だった。だが、ぼくは、ほんとうは、文学など一かけらもない作品で、つまり『戦争』でデビューしたかったのだ。(211頁、高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』講談社、2006)

確かに、『ジョン・レノン対火星人』にはお互いに関係してない挿話や絵などがあって、その点において古典的な文学とよっぽど離れた小説であると言える。でも、実験性の後ろには高橋さんが避けようとした「文学的な要素」は多少見分けることができるような気がする。まず、先程触れたタイトルを考えて見よう。『ジョン・レノン対火星人』は精神病のある三塁コーチが作ったサインであるという紛らわしい説明が前書きにある。15ページあたりにジョン・レノンの名前はポルノグラフィの挿話に再びでてくる。
憎むべきはわたしの自我(エゴ)だ、とアブドーラ・ザ・ブッチャーは思った。
マハリシ・マヘリーシ・ヨギ導師(ぐる)はジョン・レノンの戦いより愛の優位を説いている。ワタシモソウ思ウ。「プロレスとは愛(アムール)なのだ」 (15頁、高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』講談社、2006)

『ジョン・レノンと火星人』には二つの表面的な主題がある。ポルノグラフィーを書いている「私」に象徴される「愛(エロチズム)」と、頭の中に死躰が住んでいる「すばらしい日本の戦争」に象徴される「暴力(或いは“死”)」です。この二つの要素は常に接触し、対立している。先程取上げた挿話にも「エロ対暴力」という一貫したテーマが見えると思う。 アブドーラ・ザ・ブッチャーは悪役のプロレス選手として知られていて、レノンは「愛LOVE」をアピールしたことで有名だ。又は、レノンにあてられた「戦いより愛」というマハリシの言葉は様々な読みかたが可能で、「愛」を「エロ」として理解させる皮肉めいた読み方も考えられる。ビートルズは、インドでマハリシの瞑想の教えを受講した経験があって、マハリシは布施として大金を要求し、信者の女性に「性的興味」を示したという目撃者の主張の後に、ビートルズは彼に失望し、指導を離れたらしい。マハリシに対する皮肉はジョン・レノンにより『セクシー・セディー』という曲に表れると言われている。レノン自身もヨコ・オノと一緒にベッド・インという「平和活動パフォーマンス」をした経験もあるし、アルバム・ジャケットで裸体を見せたり、雑誌の表紙でセックスする姿を載せたりしたので、「愛(平和)」と「エロ」の境目の薄さを証明していた存在だったような気がする。さらにいうと、ローリング・ストーンズ雑誌の表紙になった有名な写真はレノンが暗殺された日に取られたものである。つまり、『ジョン・レノン対火星人』が書かれた80年代には死の直前の写真はまだ眼の前にあって、『暴力』と『愛(エロ)』というテーマが熱かったと推定できる。そういえば、レノンを殺したマーク・チャップマンは精神疾患を患っていた。もちろん、『日本の素晴らしい戦争』に直接に結び付けられないが、どこか縁のようなものが感じられる。

先程取上げたブッチャー、マハリシ・マヘリーシとレノンの場合は多少関連性が見えるが、そうでない名前が多い。私は日本の80年代の背景の知識が乏しいので、小説を読み始めた時に膨大な数の固有名詞をいちいち徹底的に調べ、なんらかの関連性を探していた。登場人物などの名前は実在するものが多ったが、いくら考えても実物と小説の世界のものは重なっているところがほとんどない。例えば、「パパゲーノ」はモーツァルトが作ったオペラ「魔笛」の登場人物で、高橋源一郎のパパゲノとあまり似ていない。テータム・オニールと石野真子も同様である。

資料を調べなくても、実物と小説の登場人物を関連付けるというのは一般的な読者の無意識的な行為だろう。けれども、高橋さんはそのような読み方を意図的にブロックしようとしている。背景知識によるイメージをどうしても避けたい場合は空想の名前を付けて、その登場人物の性格などをはじめから語るのが普通だと思う。たが、空想の名前でも読者によっては何らかの連想を呼び起こすこともある。そこで、高橋源一郎のように筋に関係のない有名人の名前を使うことは、却って「イメージをもつな!」というメッセージになっている。つまり、言葉とそれが指している現実は必ずしも対応していないということ。「すばらしい日本の戦争」と「ヘーゲルの大論理学」のような名前の付け方にもその発想が見られる。登場人物に何かのイメージを持たせたい筆者はあだ名っぽい長い説明文みたいなものを使う。突発性小林秀雄地獄と言う病気まである。

2 comments:

Anonymous said...

万歳、ソロビエ同士!

宮崎美穂

Anonymous said...

More articles from Surovyi Viacheslav! We're bored of Beholdmyswarthyface!

-Ian Hogarth, Marissa Antha, et. al.