Wednesday, July 29, 2009

Endō Shūsaku’s “Mothers” (Haha naru mono, 1969)

This just in from Saga Ittetsu. Van C. Gessel’s translation of “Mothers” can be found in The Columbia Anthology of Modern Japanese Literature: From 1945 to the Present:

l 七頁 上段二行目「あの島」、八行目「私が今から行く島」

 この作品の主な舞台となる島であるが、生月島・黒崎村(後述)・平戸島などの要素を混在させた架空の島だと考えられる。ただし、生月島の性格が強く付与されていると思われる。

l 八頁 上段二十三〜二十四行目「切支丹を背景にした小説」

 昭和四十一年三月に発表された『沈黙』を指すと思われる。二十一頁 上段十三行目「切支丹時代を背景にしたある小説」も同様。『沈黙』から『死海のほとり』に至るまでの遠藤周作の作品には、『沈黙』と思われるものを書いた「小説家」が登場することが多い。

l 八頁 下段八行目「長崎からバスで一時間ほど行つた漁村」

 長崎県にある黒崎村を指すと思われる。黒崎村周辺は、『沈黙』に出てくる「トモギ村」の素材となっている。作者遠藤周作は、この黒崎村でかくれ切支丹の爺役と出会った。それについては、エッセイ「弱者の救い」(『切支丹の里』所収)参照[1]のこと。

l 八頁 下段十六行目「プチジャン神父」

 宣教師。フランス生まれ。一八六〇年に日本布教を命じられ、一八六三年から長崎で生活を始め、大浦天主堂の建築に協力する。一八六五年三月十七日にキリシタンがこっそり聖堂を訪れたのを契機として、彼等の指導とカトリックへの復帰に努力する。しかし、当時はまだキリシタンは禁止されていたため、幕府が信徒を弾圧し、一八六七年には浦上四番崩れが起こる。彼に関連する遠藤周作の作品としては、『小さな町にて』『女の一生 一部・キクの場合』などがある[2]

l 九頁 下段十~十一行目「七年前に私は胸部の手術を受けて直った」

 前配り年譜からも分かるように、この作品が発表された昭和四十四年の七年前の昭和三十七年前後は、作者の遠藤周作が肺結核の病床に着いており、手術を行った頃である。

l 十二頁 上段十三~十四行目「この地域一帯の歴史を書いた本」

 片岡弥吉の『長崎の殉教者』(角川新書 昭和三十二年五月)を指すと思われる[3]

l 十二頁 下段二十三行目「南北十粁、東西三・五粁のこの島」

 作中の主な舞台となっている島が、地形的には生月島に近いことが分かる。以下、遠藤周作が目を通したと思われる片岡弥吉『長崎の殉教者』[4]の「ザビエルと平戸」における記述を引用する。

「生月島は平戸島の西北にある南北に細長い島。一島一町をなしている。人口一万三二四人(昭和四三年)南北一〇キロ、東西三・五キロ」

l 十三頁 上段一行目「カミロ・コンスタンツォ神父」

 平戸や生月で布教を行い、その後五島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられ、9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の岬で、今日焼罪と呼ばれる地で火あぶりの刑に処された。

以下、『長崎の殉教者』の「ザビエルと平戸」における記述を引用する。

「火が燃え上がった。柱にしばられた神父の姿がもうもうたる黒煙にかくされた。しかし、火をはくような説教の声が、矢来を越えて人々の耳にひびく。火が着物につき、熱気が息をとめようとした。最後の声をしぼって、賛美歌「ラウダテ」をうたうのが聞こえて来た。賛美歌をうたい終わると「サンツス」(聖なるかな)の祈りを五度となえた。それが最後であった。」

l 十三頁 上段六〜七行目「岩島」

 平戸島近くの中江の島が素材となっていると思われる。中江の島では多くのキリシタンが殉教した。

l 十六頁 下段二十一〜二十二行目「一円札」

 作中の「私」のモデルを遠藤周作自身とすると、十六歳のときは昭和十四年にあたる。当時の成年女性の平均日給は1.016円(101.6銭)であり、たばこ一箱は0.182円(東京)であった。『昭和国勢総覧 下巻』(昭和五十五年十一月)参照。

l 十九頁 上段十七〜二十二行目「あの頃〜飛んできたのもここである。」※

 年譜と比較すれば明らかなように、遠藤周作や母郁の実人生とはかなり隔たりがある。

l 二十一頁 下段三〜八行目「むむ〜わが胸にあるぞやなア」※

 かくれキリシタンが酒宴で斉唱する「さんじゅあん様のうた」「じごく様のうた」のうち、後者の一部。皆川達夫『随想と対談 オラショ紀行』参照。

   さんじゅあん様のうた

 あー前はなあ泉水やなあ / 後ろは高き岩なるやなあ / 前もな後ろも潮であかするやなあ

 あーこの春はな この春はなあ /  桜な花かや 散るじるやなあ / また来る春はな 蕾ひ

らくる花であるぞやなあ

   じごく様のうた

 あー参ろうやな 参ろうやなあ / パライゾの寺にぞ参ろうやなあ / パライゾの寺とは申す

るやなあ / 広いな狭いは わが胸にあるぞやなあ

 あー しばた山 しばた山なあ / 今はな涙の先き(谷)なるやなあ / 先はな 助かる道で

あるぞやなあ

ただし、遠藤が目を通したと思われる『長崎の殉教者』の「ザビエルと平戸」においては、「サン・ジュワン様のうた」として次のように記されている。

前はなあ、泉水やなあ / うしろは高き岩なるやなあ / 前もな後ろも潮であかするや

この春はな、この春はなあ / 桜花かや、散るじゃろやなあ / また来る春はな / つぼみ

開くる花であるやなあ

まいろうやなあ、まいろうやなあ

  パライゾの寺にぞまいろうやなあ

  パライゾの寺とは申するやなあ

  ひろいなあ、せばいはわが胸にあるぞやなあ

l 二十三頁 上段八行目「おテンペンシャ」※

 資料四参照。作中ではあたかも当時でもおテンペンシャを「かくれ」が使っているように記されている(二十三頁 上段十三~十四行目「かくれたちはこの鞭で身を打つのである」)が、実際は当時すでにもう「民族的行事に必要な「お道具」」[5]だった[6]

l 二十三頁 上段二十四〜下段四行目「でうすのおんはあ〜むかわせたまえ」※

 生月島山田などで唱えられている「憐れみのおん母(さるべれいじなのおらしよ)」が素材となっていると思われる。以下、「現行オラショの復元」(田北耕也『昭和時代の潜伏キリシタン』)から引用する。引用部分は山田のかくれキリシタンの声を復元したものであり、改行は発表者による。

   憐れみのおん母

 万事かない給うあわれみの / おんはは/ こうにてまします

御身におんれをなしたてまつりて / 我等が一命かんめいたのみをかけたてまつりて

ろれんとなる様なえいわな / このみに / おんみに / しやきりなしをなし奉りて

このなみだのために / うみきなきして / おみーにねがいを / かけ奉りて

これによって / われらがおんとりなわしの / あわれみのおんまなこを / われらがめに

むかわせたもう / またこのるろーののち / ごたいなりは / おんみにて

ましませばでーうすわ / われらに見せ給う / 深くごにゅーように深くごはいりよーすぐれて

あまさましませばびりじんまりやかな / たっときでーうすの / おんはーさんたまりや

きりすての / おんやくそくを / うけたてまつりて / みとなる様にたもう

たまいやあんめーずす

傍線部(発表者による)は作中で「私」が耳にした部分であり、多少表現が違っているのは、併記してある「おらしよの翻訳」の言葉を借用したためと考えられる。

l 二十三頁 下段十二行目「マリア観音」

 キリスト教の聖母マリアが観音の姿をしているもの。かくれキリシタンが役人の目を盗んで拝むために作られた。

l 二十四頁 下段十六行目「四谷の下宿」

 吉満義彦が舎監を務めていたカトリック学生寮の白鳩寮が素材となっていると思われる。その周辺状況は、前配りの年譜を参照のこと。

l 二十七頁 上段十六行目「納戸神」

 遠藤が目を通したと思われる資料を見る限り、農婦の絵を描いたものは無かった。恐らく「マリア=農婦の姿」というのは遠藤による創作と思われる。


【解釈】(引用部分の文字表記は、旧かな・新字体とする。)

l 独善的な姿に込められた思いと、内なる批評性

()()(もの)」としての「私」

l 見知らぬ「私」への、島の住人の対応

六頁 九~十行目「ベンチの人たちは私に時々、探るような視線をむけながら、だまつて坐っている

七頁 下段二十三行目「こちらが恐縮するほど、頭を幾度もさげ」

八頁 上段五行目「いくら肩を並べて歩こうとしても、彼は頑なに一歩の距離を保つて

八頁 上段十八~二十三行目「うしろからは何の返事もきこえない自分の身を守る方策と考えているのかもしれない」

「私」に対して心を開いていない島の住人の様子が描かれている。

l 「私」の不案内さ(地理感覚・知識面での「他国者」)

六頁 十三~十四行目「どこかで犬が鳴いているがそれが島から聞こえるのかこちら側なのかわからない

六頁 十五~十六行目灯の一部だと思つていたものが、少しずつ動いている。それでやつと、こちらに来るフェリー・ボートだと区別がついた」

七頁 上段二~三行目「あの島では~半農半漁だと聞いている

七頁 上段十三~十四行目「二年前までは~往復していなかつたそうである

七頁 下段八~九行目「そういう繰りかえし~もう島の灯がすぐ眼の前にあつた

九頁 上段二十~二十四行目「それは私が迂闊だつた~存在だということを忘れていたわけだ」

十三頁 上段十八行目~下段二行目「私は彼女のことを~なんと、おばさんは~修道女だと知つて驚いた~おばさんも、その一人だそうである

十四頁 下段二十三行目~十五頁 上段三行目「どうして~こんな場所にあるのか、わからぬ~この浜のあたりで処刑されたのかもしれぬ

「私」は、舞台となっている島の地理感覚がいま一つ掴めていない。また、島の情報については伝え聞いたものでしかなく、島の情報・生活に不案内な「私」が描かれている。

※一方で、七頁 上段四~十行目「どの顔も似ている~宗門迫害とで苦しんできたからだ」から分かるように、島の住人を性格づける「私」の口調は確信を帯びている。だが、同時にあくまでそれは自分の「先入観」であることも自覚している。→このような二重構造については後に言及する。

l 精神的な「他国者」(「私」が感じる島の住人との精神的な距離)

十四頁 上段八行目~下段六行目「「今、信者の数は島でどのくらいですか」~次郎さんのかくれにたいする軽蔑がどこか感じられたが、私は声をたてて笑つた」

二十一頁 下段二十一~二十四行目「今日一日で~他国者意識を棄ててくれたのかも知れぬ~次第に好意を感じてくる」

八頁の次郎さんの様子と比較すると、「他国者意識」を島の住人が棄ててくれて、かなり打ち解けてくれていることが分かる。そして「私」も、彼らに好意を抱いている。

↓しかし

十八頁 上段二十一~二十三行目「私がさつきから思つているようなことは、同じカトリック信者の助役や次郎さんの意識には浮んではいないらしかつた」→十七頁 下段三~十行目で、次郎さんと助役(中村さん)が「私」に親切にしてくれているにも拘わらず、彼らと精神的な距離を勝手に感じている

十九頁 上段七~十行目「「あげん偏屈な連中に、先生、なして興味ば持たれるとですか」/助役さんは、ふしぎそうに私にたずねたが、私はいい加減な返事をしておいた」

二十二頁 上段四~五行目「この人たちはかくれを軽蔑し、見くだしているようである」

その後、二十三頁 下段十三行目まで「かくれ」への関心・思い入れを詳細に語る「私」

「私」は、島の住人に好意を持ってはいるものの、「かくれ」が意識に上ると、どうしても島の住人との精神的な距離を感じてしまう。特に、二十三頁 上段二十四行目~下段四行目で「かくれ」のオラショを暗唱している一方で、二十三頁 下段十五~十六行目「さつきから次郎さんが教えてくれた唄の曲を思いだそうとしたが無駄だった」というように、島の住人である次郎さんの唄を思い出せないことは、両者に対する「私」の距離感を如実に示している。

※註釈にもあるように、次郎さんが唄っているのは「じごく様のうた」(遠藤が目を通した文献の関係上、彼は「サン・ジュアン様のうた」と思っていたかもしれないが)という殉教の唄である。これは本来、生月島山田の「かくれキリシタン」が唄うものである(『昭和時代の潜伏キリシタン』や『長崎の殉教者』を読んだ遠藤周作は、当然そのことを知っているはずである)が、作中では「かくれ」を軽蔑するカトリックの次郎さんがこの殉教の唄を歌う設定にしている。一方で、二十三頁 上段二十四〜下段四行目「でうすのおんはあ〜むかわせたまえ」も山田の「かくれキリシタン」が唄う「憐れみのおん母」というオラショであり、こちらを「かくれ」のオラショという設定にしていることに、作者である遠藤周作の作為を感じざるを得ない。

l 「かくれ」と「私」との関係(「かくれ」への共鳴と、「かくれ」による拒絶)

二十一頁 上段七~十七行目「私にとつて、かくれが興味があるのは~それは彼等が、転び者の子孫だからである~かくれの中に、私は時として、自分の姿をそのまま感じることがある

二十八頁 上段二十~二十四行目「私は~母親の顔からしばし、眼を離すことができなかつた彼等もまた、この私と同じ思いだつたのかという感慨が胸にこみあげてきた

二十八頁 下段十四~十八行目「「この涙の谷~おまなこを」~オラショを心のなかで呟いてみた」

「かくれ」への共鳴=「母」への思慕

↕対照的に

二十八頁 上段十七~十九行目「次郎さんは苦笑している~心のなかでは笑つていたにちがいない」→カトリック教徒と自分との差別化を図る。

↓一方で

二十六頁 上段六~八行目からすはどこまでも追いかけてきた~まるで我々の来たことをここの人たちに警告しているようである」

二十六頁 上段十八~二十四行目「「厭がつているようですね、我々に会うのを」~返事はなかった

二十六頁 下段四~七行目「川原菊市さんは~どこか別のところを見つめているできれば、早く帰つてほしいような感じだつた

二十七頁 上段十七~十八行目「私は~眼は別の方向にむいたまま、返事がない

「かくれ」が「私」に心を開いていないし、「私」自身もそれを認識している

※「からす」の役割→「我々の来たことをここの人たちに警告している」かのような「からす」が、「かくれ」と会っている間、ずっと鳴いている(二十六頁 上段六~七行目、二十七頁 上段十三行目)。

l まとめ

以上のような分析から、『母なるもの』を図式的に読み解こうとすると、カトリックの島の住人対「かくれ」というものになり、「私」は後者と自分とを重ね合わせようとしているということが出来る。

しかし、「私」が精神的な距離を感じているカトリック教徒たちが「私」に「他国者意識を棄てて」接してくれているのとは対照的に、「かくれ」は「私」を拒絶している様子が窺える(少なくとも「私」はそう感じている)。そして、「「母」への思慕」という点において「私」が「かくれ」と共鳴した後も、「我々の来たことをここの人たちに警告している」かのような「からす」は鳴いている(二十八頁十三~十四行目)。

これらのことは、「かくれ」の世界には入り込めないものの一方的に彼らに思いを寄せる「私」の些か滑稽ともとれる独善的な姿が描かれているとも考えられないだろうか。自分に親切な対応をしてくれるカトリック教徒に対しては、その宗教観の相違があるが故に、距離を感じてしまう「私」。そして、「私」のその独善的な姿は、「母」と「私」との関係を「私」が回想する場面でも描かれている。次は、「母」と「私」との関係について分析し、考察する。

「母」と「私」との関係

l 「母」の視界に入れない「私」(合わない視線)

十頁 上段十八~二十頁「記憶にある限り~母から手を握られて眠つたという経験は子供時代にもない~烈しく生きる女の姿である」

十頁 下段一~六行目「母は~眼だけが虚空の一点に注がれ~たつた一つの音を掴みだそうとするようだった」

十頁 下段十六~二十一行目「彼女はソファに腰をおろしたまま石像のように動かない~うつむいたまま、額を手で支えて苦しんでいる彼女の姿」

十一頁 上段十三~二十三行目「母は~たつた一つの信仰を求めて、きびしい、孤独な生活を追い求めていた~眼をあけると、母の指が、ロザリオを動かしているのが見えた」

「私」が「母」の視界の中に入れていない

↕対照的に

十頁 下段八~一一行目「私はその顎に、褐色の胼胝がまるで汚点のようにできているのを知っていた」

十頁 下段十七~二十二行目「そうやって~体全体の神経を母に集中していた~どうしてよいのか辛かった」

十一頁 上段十六~二十三行目「冬の朝~母の部屋に灯がついているのをみた。彼女がその部屋のなかで何をしているかを私は知つていた母の指が、ロザリオを動かしているのが見えた

「私」が「母」に関心を寄せている

l 「母」への反発

十五頁 上段十~十二行目母に嘘をつくことをおぼえた母にたいするコンプレックスから出たようである」

十五頁 上段二十一~二十三行目「優等生から軽蔑されて~母にたいする仕返しがあつた」

十五頁 下段七~十行目「まぶたの裏に母の顔がうかんだ~私はそれを払いのけるために、さつきよりも深く、煙を飲みこんだ」

十六頁 上段五~七行目「私は息をつめ~母がそれを素直に信じた時、胸の痛みと同時にひそかな満足感も感じていた

「私」を寄せ付けないような厳しい「母」への反発

「母」と、彼女に近寄りたくても近づけない「私」、という図式が揺らぐ

↓同時に

十六頁 上段八行目~下段七行目「正直いつて、私には本当の信仰心などなかつた~もし神があるならば、自分にも信仰心を与えてほしいと祈つたが、そんなことで気持が変わる筈はなかつた~母が~教会へ出かける足音を、平気で寝床で聞いていた~日曜日の教会さえ、さぼるようになり~時間をつぶすのだつた」

信仰心がないことを告白。「私」に信仰心を与えることすら出来ない「神」を揶揄するかのような口ぶり。そして、それを言い訳にするかのように、開き直って教会に行くのをさぼる「私」。

l 「母」への思いの変化と、「妻」の排除

十七頁 上段二~九行目「玄関をあけると~物も言わず、私を見つめている。やがてその顔がゆつくりと歪み、歪んだ頬に、ゆつくりと涙がこぼれた~母はすすり泣いていた~私は後悔よりも、この場を切りぬける嘘を考えていた」→これまで「私」から逸らされていた「母」の視線が「私」に向く。しかし、「私」は「母」から逃れようとする。

二十頁 下段十三~十七行目「母の顔は牛乳のように白くなつていた~苦しそうな影がまだ残つていた~不謹慎にも、さつき見たあの暗い写真の女の表情を思いだした~自分のやつたことを自覚して私は泣いた」→恐らく「母」の顔にエロ写真の女の顔を重ねることは、「マタイによる福音書」第五章二十七~二十八の「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」を踏まえている[7]。つまり、「私」がキリスト教おける「罪」を犯したという意味が付与されているのである。それは、この記述のすぐ後にある二十一頁 上段七~十九行目までの、「転び者」としての「かくれ」に共感を寄せる理由へと繋がっていくと思われる。

この出来事を回想する辺りから、「母」との精神的な密着度合いが明らかに変化する。それと同時に、「妻」を排除するようになる。

十九頁 上段二十三行目~下段二行目「今でも妻にさえ黙つてそつと詣でる~誰にも言いたくない私と母との会話の場所親しい者にさえ狎々しく犯されまいという気持が私の心の奥にある

二十頁 下段二十一~二十二行目「私もいつかはここに葬られ、ふたたび少年時代と同じように彼女と二人きりでここに住むことになるだろう

二十五頁 上段十九~二十一行目「母が、私に現れることを妻に話したことはあまりない。一度、それを口に出した時、妻は口では何かを言つたが、あきらかに不快な色を浮べたからである

十頁 上段六~十行目における、妻に対する「申し訳ない」という気持ちや、「に自分でも気づいていないような、私と母との固い結びつきが~厭だつたからである」という「私」の思いとは明らかに異なっている。

↓更に

九頁 下段十四~二十三行目と対応関係にある二十三頁 下段十八行目~二十四頁 上段一行目「夢を見た~医師も妻もいなかった」の後において、前者では語らなかった母と自分の密接な関係を語る。

二十四頁 上段二~一一行目「母が出てくるのはそんな夢のなかだけではなかった~妻さえ、絶対に書斎に入れぬ私なのに~ふしぎに母は邪魔にならない。気を苛立たせもしない」

「母」と自分との関係を語り変えていく「私」

二十四頁 上段十三~二十四行目「そんな時の母は~少し哀しげな眼をして見ている母なのである~そんな母のイメージをいつか形づくっていたのにちがいない~そのイメージは、母が昔、持っていた「哀しみの聖母」像の顔を重ね合わせているのだ」

二十八頁 上段二十三行目~下段十行目「彼等もまた、この私と同じ思い~母への思慕に変つてしまったのだ。私はその時、自分の母のことを考え、母はまた私のそばに灰色の翳のように立つていた。ヴァイオリンを弾いている姿でもなく、ロザリオをくつている姿でもなく、両手を前に合せ、少し哀しげな眼をして私を見つめながら立つていた

「母」のイメージを自分の中で変えていったこととその過程を語ってみせる

l 何故「母」のイメージを作り変えようとするのか

 以上分析したことから、「私」は、「妻」を叩き台としてまで、自分と「母」との関係を語り変え、「母」のイメージを作り変えていることが分かる。そして、その過程までも詳細に語ってみせる。「私」の行う、このような「母」のイメージの変換は、「実際」の「母」がそれと全く違ったことが示されていることにより、かなり強引なもののように感じられる。では、何故「私」は、このような「強引」なイメージ操作を行い、その過程までも語ってみせたのであろうか。

 その疑問に対する一つの考え方として、「母」を裏切り続けたことを許してもらうために「母」のイメージを変換させた、というものがある。そのような論文をいくつか引用する。

自分が決定的に罪を犯したものとの肉体的感覚的な接触による赦しと解放とは、

(中略)自分の犯した罪のために傷つけた一人の人に対して、自分が本当に赦され

るのは、当事者のその人が自分に赦しを表明してくれること以外にはないでしょう。

(奥野政元「遠藤周作とキリスト教」平成二十年八月)

   その存在の〈うしろめたさ〉のゆえに、不安と孤独に苛まれ、絶望的な者である

ことを実感せざるをえない者にとって、そこから解放と救いを可能にするものに、もし表現を与えるとするならば、それは(中略)〈両手を前に合わせて、私を後

から少し哀しげな眼をして見ている母〉にほかならないのである。

(宮野光男「文学のなかの母と子」昭和五十九年六月)

 恐らく、以上二つ挙げたような解釈が一番妥当であり、誰もが頷くものであろうし、発表者もその解釈自体には意義はない。しかし、先に述べたように、「私」が「母」に対して「強引」なイメージ操作を行い、その過程までも語ってみせたことと、「かくれ」に対して一方的に思いを寄せる「の自閉性という側面を考えてみると、両氏の論は、作品の表向きの主題に引きずられているように感じられる。これらの論は、遠藤の作品における「母」と「子」の関係について、作者の幼児期における家庭の問題や浪人を繰り返したことを突破口として、作者の「うしろめたさ」[8]に焦点をあててしまっているが故にぶつかってしまう限界を乗り越えられていない[9]

では、これら論のような、「私」が「母」に必死にすがっている、という解釈から離れることは出来ないのだろうか。「私」が、自分自身を客観・批判的にも見ている、といった解釈は不可能なのであろうか。

内なる批評家[10]としての「私」

l 「私」によって「語られる現在」と「語られる過去」

 発表者がここで主張したいのは、『母なるもの』における「私」が、「かくれ」の島にいる「現在」の「私」と、「母」と関わっている「過去」の「私」だけでなく、両者を語っている第三の「私」とも言うべき存在がいるのではないか、ということである。換言すれば、島にいる「私」も、「母」と関わる「私」も、その第三の「私」によって語られているものではないか、ということである。そして、その「私」は、「現在」からも「過去」からも離れて、「物語内容の時間」[11]外にいるのではないか。

 恐らく多くの読者は、『母なるもの』を島にいる「私」が、島の様子を語りながら、「母」との思い出を回想し、その中で「かくれ」に共感する、と読むのではないか。例を挙げる。

  九州の「かくれ切支丹」、いわゆる「かくれ者(転び者)」と呼ばれる人たちを訪ね

ての旅、いわばそのような「現在」の時間と、一方「母の夢をみた」という言葉で

書き起こされる、いわば「回想」の時間という二つの時間が交互に描かれていく。

(中略)

   一方〈私〉は、それら「転び者」を思う心情に呼応するようにして、自己の「母」

を思い起こしていく。

(川島秀一『遠藤周作〈和解〉の物語』平成十二年九月)

↓しかし

『母なるもの』は、「現在」の「私」と、その「私」による回想から成る、という根拠は何処にあるのか。むしろ、そのような立場からこの作品を考えようとすると破綻する。

九頁 下段二十三行目~十頁 上段四行目「そういう夢を~やつとここが三年間入院した病院のなかではなく自分の家であることに気づいて~何時ものことだつた」

十一頁 下段一行目「暗いうち、雨の音で眼がさめた」→その直前まで「母」の回想をしているので眠っていたわけではない。

「現在」の「私」が「母」との思い出を語っているのではない。

「現在」と「過去」を語り分けている、「物語内容の時間」外にいる「私」の存在が想定される。つまり、「現在」は「語られる現在」であり、「過去」は「語られる過去」である。

l 「物語内容の時間」外にいる「私」による、「語られる現在」と「語られる過去」の感応

以上のように、「物語の時間」外の「私」を設定すると、「語られる現在」が「語られる過去」[12]と感応するように、意図的に配置されているということが見えてくる。

「第二の語られる過去」(「母」に嘘をつく)

十八頁 上段五~六行目「西宮の盛り場~母親に嘘をついていた~心に甦った」

「第三の語られる過去」(「母」の死の際、後ろ暗いことをしていた)

二十一頁 上段十一~十二行目後悔と暗い後目痛さと屈辱とを感じつづけながら生きてきた」

「第四の語られる過去」(「母」の哀しそうな眼)

二十八頁 下段五~十行目「私はその時、自分の母のことを考え、母は~少し哀しげな眼をして私を見つめながら立つていた」

島での「私」の出来事(「私」の心の変遷)と、「母」との思い出とを感応させてみせている因みに、「第一の語られる過去」より前にある「語られる現在」においては、「母」は「私」の意識に上らない。

そして、先にも述べたように、「物語の時間」外にいる「私」は、「語られる過去」でかなり強引に「母」のイメージを語り変え、それを土台にして、「母親」にすがる「かくれ」に思いを寄せる「私」の姿を感応させてみせる。つまり、「物語の時間」外の「私」が、「語られる現在」と「語られる過去」の両方において「私」の独善性を示してみせ、その上で両方の「私」をつなぎ合わせようとしているのである。

l まとめ

『母なるもの』においては、何としても「母」に許しを乞いたいという「私」のどうにもならぬ強い思いと、現実の「母」を離れて独善的な解決へと走ってしまう「私」の姿の両方を提示されている。そして、作品の最後に至っても、「私」が「母」に関して、「ヴァイオリンを弾いている姿でもなく、ロザリオをくつている姿でもなく」(二十八頁 下段七~九行目)と述べているように、「実際」の「母」のイメージを意識してしまっていることも、「私」が自分自身に嘘をついていることを認識していることを暗示しているのであろう。これは、「私」が自分のことを批判的な観点から眺めていることではないのだろうか。「私」の宗教観の独善性を言外に含ませていることではないのだろうか。このレジュメの8ページで述べた「島の住人を性格づける「私」の口調は確信を帯びている。だが、同時にあくまでそれは自分の「先入観」であることも自覚している」という「私」の意識の二重構造は、「私」が、自分の先入観に確信を抱いているのと同時に、自分に対する批判的・客観的も保持していることに他ならない。

このような、「内なる批評家性」を遠藤の代表作『沈黙』の中に見て取った佐伯彰一氏の論を引用する。

  この人物[13]は、作中でもっとも明晰かつ的確に見ぬき、判断する蛇の眼の持ち主、

つまりは批評家的な存在に他ならない。冷徹に見わたし、裁きかつ処理するこの男

が、肝心の中心人物を押しのけかねまじき溌剌たる動きを示すというのは、一体何

を物語るものであろうか。この批評家的な人物に、作者はいささか説明をゆだねす

ぎているという不満もおぼえたのだけれど、同時にこの事実は、遠藤氏における内

なる批評家性の根ざしの深さを指し示すものに違いない。

(佐伯彰一「「哀しい眼」の想像力」昭和四十八年二月)

この佐伯氏の論において「不満」とされているように、『沈黙』においては、批評家の役割を果たす筑後守が説明を委ねられ過ぎているのかもしれない。しかし、『母なるもの』においては、ある人物が「私」に対して批評的役割を果たすという構造をとらずにいても、「私」の強引で独善的な姿を描いてみせることにより、「私」の宗教観の限界性をも示される(ただし、二十八頁 上段二十四行目~下段六行目「昔~もつとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕に変つてしまつたのだ」とにあるように、あくまで正統のカトリックの教えを日本人としての立場から相対化することは忘れていないが)。独善的だと分かっていながらも「母」のイメージが作り変え、「母」への許しを乞う「かくれ」へと繋がっていこうとする「私」の強い思いと、それを批評的に眺める視線の併存。それこそが、『母なるもの』の持つ特色ではないだろうか。そして、そのような「私」の宗教観の限界性を、遠藤周作は『母なるもの』の四年後に発表された『死海のほとり』において乗り越えようとするのである。

【参考文献】(注釈)

(著書・事典)

遠藤周作『切支丹の里』(人文書院 昭和四十六年一月)

遠藤周作「弱者の救い」(遠藤周作『切支丹の里』人文書院 昭和四十六年一月)

※ただし、発表者は『遠藤周作文学全集 第十三巻 評論・エッセイⅡ』(新潮社 平成十二年五月)の本文を参照した。

片岡弥吉『長崎の殉教者』(角川選書 昭和四十五年三月)

片岡弥吉『かくれキリシタン』(日本放送出版協会 昭和四十一年六月)

田北耕也『昭和時代の潜伏キリシタン』(日本学術振興会 昭和二十九年十月)

皆川達夫『対談と随想 オラショ紀行』(日本キリスト教団出版局 昭和五十六年三月)

日本キリスト教大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史大事典』

(教文館 昭和六十三年二月)

『昭和国勢総覧 下巻』(東洋経済新報社 昭和五十五年十一月)

『遠藤周作文学全集 第十五巻 日記 年譜・著作目録』(新潮社 平成十一年十二月)

(新聞・雑誌)

遠藤周作「日本の沼の中で―かくれ切支丹考」

(「野性時代」角川書店 昭和五十四年一~六月)

下野孝文「遠藤周作「母なるもの」論」

(「国語国文 薩摩路」鹿児島大学法文学部国語国文学研究室 平成十七年三月)

(書籍・事典)

江藤淳『成熟と喪失―〞母〟の崩壊』(河出書房新社 昭和四十二年六月)

※ただし、発表者が目を通したのは講談社文芸文庫(平成五年十月)のものである。

遠藤周作 佐藤泰正『人生の同伴者』(春秋社 平成三年十一月)

川島秀一『遠藤周作〈和解〉の物語』(和泉書院 平成十二年九月)

宮野光男「文学のなかの母と子」(『文学における母と子』佐藤泰正編

笠間書院 昭和五十九年六月)

「マタイによる福音書」(『聖書』日本聖書協会 昭和三十九年)

(新聞・雑誌)

遠藤周作「異邦人の苦悩」(「別冊新評」昭和四十八年十二月)

※ただし、発表者は『遠藤周作文学全集 第十三巻 評論・エッセイⅡ』(新潮社 平

成十二年五月)の本文を参照した。

奥野政元「遠藤周作とキリスト教」(「キリスト教文学」日本キリスト教文学会九州支部

「キリスト教文学」編集室 平成二十年八月)

佐伯彰一「哀しい眼」の想像力」(「国文学」学燈社 昭和四十八年二月)

戸松泉「「小説家小説」としての「趣味の遺伝」」

(「文学」岩波書店 平成十九年九・十月)



[1] ただし、発表者は『遠藤周作文学全集 第十三巻 評論・エッセイⅡ』に収録された本文を参照した。

[2] この記述は、『日本キリスト教歴史大事典』の「プティジャン」の項に発表者が手を加えた。

[3] 下野孝文「遠藤周作「母なるもの」論」(「国語国文 薩摩路」平成十七年三月)を参照した。

[4] 正確には、遠藤が目を通したものは昭和三十二年五月発行の角川新書版であり、この引用は増補改訂されて昭和四十五年三月に発行された角川選書版であるので、念のため、付記しておく。

[5] 田北耕也『昭和時代の潜伏キリシタン』の「生月地方の納戸神」からの引用。遠藤はこの本に目を通していたため、おペンテンシャが既に実際には用いられていないことを知っていたと思われる。

[6] この指摘は、下野孝文「遠藤周作「母なるもの」論」(前出)にある。

[7] 遠藤周作は、作品の中に聖書で描かれている場面のイメージを織り込もうとする。「異邦人の苦悩」(「別冊新評」昭和四十八年十二月)から引用する。「私が『沈黙』の中で、司祭が踏絵に足をかけた場面の最後の行に「そのとき鶏が鳴いた」と書いたとしても、私の読者は、それが聖書の中でペトロがイエスを裏切ったときに、三たび鶏が鳴いたという言葉を決して思い出してはくれないだろう。したがってこの鶏が鳴いたというイメージは、単なる自然描写の一行にしか受け取られないかもしれない」

[8] 「母」へ裏切り、うしろめたさについては、遠藤周作自身が『人生の同伴者』(平成三年十一月)の中で自ら口にしている。

[9] 「母」への裏切りを悔やむ気持ちが作品に反映されているという視点の持ち方は、江藤淳『成熟と喪失―〝母〟の崩壊』に端を発するものであると考えられる。

[10] この言葉は、佐伯彰一「哀しい眼」の想像力」(昭和四十八年二月)に拠った。

[11] このような論は、戸松泉「「小説家小説」としての「趣味の遺伝」」(平成十九年九・十月)に拠る。

[12] 便宜上、九頁下段~十一頁上段を「第一の語られる過去」、十五頁上段~十七頁上段を「第二の語られる過去」、十九頁上段~二十頁下段を「第三の語られる過去」二十三頁下段~二十五頁上段を「第四の語られる過去」と呼ぶこととする。

[13] 発表者注。『沈黙』の主人公であるロドリゴに対して、「その言葉、まことの切支丹とは、この井上には思えぬ」「してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」という言葉を投げかける筑後守井上を指す。

5 comments:

Anonymous said...

Nagai ne. Demo benkyou ni natta.
Arigatou.

-Midori Takahashi

Anonymous said...

hi honey,

It was good to hear your voice the other day. Dad and I are leaving for Coronado tomorrow morning for 10 days. It will be great to get out of this heat. Brett is staying here to watch Aki and Magic and do some work for Dad, grandpa hugh and auntie. Bunch of little stuff that needs to be done. Brett and I ran into your old friend from grade school and high school, Alejandro. He recognized us, he was real sweet and said he visits your blog every now and then. How funny it all is to me how you kids stay in touch through technology. What a different worldl.

Everything else is good. We are taking this laptop to CA so we will stay in touch.

love mom

Beholdmyswarthyface said...

Mother,

Please stop using the comment section of my blog to write me. This is a public forum.

Anonymous said...

But I thought that since the entry was about "Mothers" that it would be appropriate. No? I hope I haven't offended anyone.

-Mater

Anonymous said...

佐賀さんの丁寧な紹介を機に『母なるもの』を読んでみました。とても面白かった。自分のママの子宮に本気で戻りたくなった(笑)。

ー 鈴木輝久