Thursday, July 9, 2009

Miss Kishi on Graham Rawle's 2005 novel, Woman’s World


This just in from the lovely Miss Kishi M-d-ka:
Graham Rawleが、1000冊以上にのぼる60年代初頭の女性雑誌を実に40000の断片にし、それを繋ぎ合わせて作り出したWoman’s Worldは、一見してポストモダン文学のテキストブック・イグザンプルのような作品であるといえるでしょう。時代設定、創作手法、テーマなど、ほとんどすべての局面においてこの作品は著しくポストモダン的な様相を呈しています。しかしながらこれだけポストモダン的な要素をてんこ盛りにしながら、この作品の読後感はどうも、ポストモダン文学的ではない、ということが気にかかります。そんなわけで、“looks funny on the pages”という今期のゼミのテーマに一番符合していそうなこの作品が、そのテーマが導くもうひとつのテーマである「ポストモダン文学」から実はかなり遠いところにあるのではないのか、というような話をするために、まずはこの作品に見られる、あからさまとも、サービス精神過剰ともいえるポストモダニティの横溢を、簡単に見てみたいと思います。

まず作品の舞台であり素材であるところの1960年代という時代そのものが、ポストモダニズムにとってはひとつの大きな磁場であるということができるでしょう。60年代というのは、先週も引用があったようにフレデリック・ジェイムスンがポストモダンの萌芽を見たlate capitalism、後期資本主義の黎明期ということになります。いってみればこの時代というのは資本主義が生活のあらゆる局面を完全に侵食し、あまねくものをcommodityとして消費するというモードの上になりたっています。Woman’s Worldという作品を形成するテクストである女性雑誌のディスコース、とりわけ商品広告というのはこのモードの代表的な言説であるとひとまずいえるでしょう。引用①で、日本におけるポストモダンの旗手、あるいはその人自身がポストモダンのアイコンであった浅田彰が、いま読むとそれこそ懐かしいような文体で言っているように、広告とはシンボリックなイメージの差異を追及するものであって、ここで消費者が消費しようとするのはその製品そのものでさえなく、その製品のイメージということになります。いってみればシニフィアンとしての広告イメージはシニフィエたる製品から切り離され、シニフィアンだけが独立して互いに戯れる世界が、この時代に成立した、ということになるでしょう。

このようにシニフィアン同士が戯れる世界、後期資本主義的ポストモダンの世界では、Woman’s Worldが依拠しているところのコラージュという手法が、時代の気分を適切に表す手段としてたちあらわれます。シニフィアンがシニフィエから独立してあるのならば、それをもとある文脈から切り離し、断片化し、それを好き勝手に結合することもできる、ということになるわけです。いや、というよりむしろ、モダンな世界で信じられてきたいわゆる「大きな物語」を解体し、その虚構性を暴きつつそれを断片化することこそ、ポストモダンの世界ではいわば「正義」として機能するとさえいえます。レジュメの②は1989年に描かれた岡崎京子によるpinkという漫画の1シーンで、この作品は作者の言によれば「東京というたいくつな街で生まれ育ち、「普通に」こわれてしまった女のこの「愛」と「資本主義」をめぐる冒険と日常のお話」という、これまた極めてポストモダン的エートスに満ち満ちた作品なのですが、ここでは、「TVみたく暮らしたいしananのグラビアみたく暮らしたい」という、昼はOL夜はホテトルを生業とする主人公ユミちゃんの、小説家志望のボーイフレンドのハルオくんが、小説を「書く」ことをやめ、「人様の本を切りばりさせて」もらうことで「小説する」というWoman’s Worldを15年ほど先取りしたような情景が描かれています。(ちなみにこれまでどんなに小説を書こうとしてもダメだったハルオくんはこの「切り張り」で桜桃賞なる文学賞をとり、賞金3000万円をもらうことになります。)このようにWoman’s World的なコラージュによる作品の創作というのは、いわば後期資本主義的ポストモダン文学のアーキタイプのようなものだといえるでしょう。

さらにここから発生するポストモダン的なテーマというのが、「作者の死」といっていいすぎならば「作者の不在」でしょう。というのも、このようにして「誰かの言葉」を引用し、それをただコラージュすることによって作られた作品の、その「言葉」の所有者・創造者は誰なのか、という素朴な問題がすぐさま浮かび上がるからです。言うまでもなく、たとえばこのWoman’s Worldという作品の無数の断片テクストを書いたのはGraham Rawleではないため、それらの断片を結合した「だけ」のRawleは通常の意味で言う小説作者であるとはいいにくいでしょう。けれども、そのRawleをわたしたちは「作者」と呼んでいいのか、というような問いは、いまさら問うにはあまりにもナイーブすぎる問題かもしれません。というのも、ポストモダン的な世界、あるいはそうした時代を経た世界では、そもそも言葉というのは所詮個人が創作あるいは所有できるものではなく、あらゆる言語活動はさまざまなテクストが互いに織り成すシステムとしての言語から引用を行い、それを繋ぎ合わせているにすぎない、つまり言葉は借り物である、というのもまた、金科玉条であるからです。それゆえ、作品のすべてが既存のテクストの切り張りでなされているこのWoman’s Worldは、言葉を紡ぎだす存在、新しいものを生み出す存在としての「作者」という概念を棄却し、「作者の不在/死」を前景化する、という意味でも、実に教科書的にポストモダンな作品である、ということができるでしょう。

このようにWoman’s Worldは時代設定、創作手法、作者の不在化などのほかにも、テーマ的に読めば「womanhoodやmanhoodなどcut and pasteの産物にすぎない」というようなこれもまたポストモダンの教科書的なメッセージのようなものを有していたり、作品結末部分では、スクラップブックとしてのこの作品自体を語り手Normaが作ったものであるかのように示唆してメタフィクションの構造を作ってみたりと、とにかくいちいち過剰にポストモダン的である、ということができるでしょう。しかしながら、最初に述べたとおり、この作品の読後感は、どうもこれまで授業で読んできたポストモダン小説(と、とりあえずは括ってしまいますが)に共通するそれとは決定的に違っているようです。それはいってみれば、これまで扱ってきた作品群が、「テクストを読む」という行為、あるいは「読み手」という存在に付与していた役割がこの作品では異なったものになっている、ということかもしれません。ということでここからは、Woman’s Worldの非ポストモダン性、ということについて少し見てゆきたいと思います。

権威ある創造者としての作者が不在化されるポストモダニズム文学では、通常そのかわりに「読み手」の機能が重要視され、「読む」という行為がテーマとして前景化されます。つまり、作者の意図から自律したものとして存在するテクストの解釈は、それを読む者のがわに全面的に委ねられる、ということです。もちろんポストモダンどうこうに関わらず、どんな作品もそれが読み手に与える解釈の幅の大きさが、結果的にはその作品価値を示すひとつの大きな指標となる、というのは古今東西を問わず言えることではあるのですが、ことポストモダンの文学では、この、読者による読解可能性の広さ、言い換えればそのテクストがどの程度「開かれているか」ということがその作品のポストモダン的正義を試す大きな試金石になっているということができるでしょう。たとえば先々週に扱った「ハザール事典」などは、「読む」という行為に中心的な役割が置かれているように書かれている、という意味で(もちろん細部のリアリティこそが「ハザール事典」の作品としての価値の大半を決めている、というのは言えることですが)きわめてポストモダン的に「正しい」作品であるととりあえずはいえるでしょう。

それでは翻ってWoman’s Worldはどうかといえば、この作品のいわゆる「読みの幅」というものはそんなに大きくはないように見えます。端的にいえば、この作品はとてもはっきりとしたプロットを持っていて、それ以外には読みようがない、という方向性を有している、ということです。語り手のNormaが実はNormaの「兄」Royのもうひとつの人格であることは作品のかなりはじめから強く匂わされていて、それでもそれが明確になる作品中盤の15章くらいまでは読者としてもそれなりにあれこれ考えを巡らせながら読むことができるのですが、それ以降には特にプロット的にも語りの手法的にも大きなひねりはなく、作品はRoy/Normaが殺したはずのHandsが実は生きていて、彼がRoyの恋人EveにRoyの服装倒錯癖をばらす、というなんというかそれ以外にないといえばいえなくもないような結末にたどり着くわけです。もちろん、二重人格というのは主体の分裂というポストモダン的テーマの変奏であるとか、あるいはこのプロット自体、スリラーのパスティーシュでありポストモダン的な手法の表れであるとか、またはこの表層性自体がポストモダンだとかいうこともできるにはできるでしょうが、しかしそれにしても、「物語」へのポストモダン的懐疑のようなものをある程度内面化している読み手にとっては、この作品のプロットはいかにもポストモダン的なコラージュの見た目に比してショッキングなほどに素朴な「物語」であり、その意味でこの作品を読む読者の自由度・権能というものは極端に制限されているのだということができるかもしれません。

しかし考えてみれば、そもそもこのRawleのコラージュの用い方自体、ポストモダンにおけるコラージュという手法が目指したものとは違うところにあります。本来ポストモダン的コラージュというのは、ランダムな切り貼りによって作り手の意図を超えた組み合わせを生み出す、つまりある種の無意識的なカオスを出現させることに眼目があるといえます。しかし引用③にあるとおり、Rawleは当初断片を繋ぎ合わせることから自然発生的に作品を進行させようとしましたが、その結果があまりにも混沌としていたため、まず自分でこの作品を普通の作品として「書き」、その後その自分の言葉に近いものを、雑誌の切り抜きに見つかった言葉で置き換えていった、としています。つまり言ってみれば、この作品は、プロットのレベルではコラージュ的な偶然性というものはなく、物語作者としてのRawleのコントロールがしっかり効きすぎるほど効いているのです。

それでは、プロット的にも語り的にも読み手の解釈あるいは介入をほとんど許さないこのWoman’s Worldというコラージュ小説を「読む」、ということはいったいどういうことなのか、言い換えれば読者はWoman’s Worldを読むことでどういう経験をしているのか、と考えると、実は一番大きいのは、ほとんど物理的にのしかかってくる負担をからだで感じることだ、ということになるのかもしれません。引用④はこの作品の冒頭近くにある段落ですが、この部分を読んでみるだけでも、さまざまに切り張りされたフォントの種別、つまり視覚的に入ってくる情報の雑多さに影響を受けずにこれをひとつの声として読み、理解するためには、物凄い集中を要するし、はっきりいって物凄く疲れる、ということが明白でしょう。その意味でこの本を最後まで読み通すことは、ほとんど字義通りめまいのするような体験だといってもいいかもしれません。しかしこのように読者に激しくプレッシャーをかけてくる部分に比べたとき、引用⑤はRoyが車の中でEveに盗んだブラジャーを発見され、混乱して広告のジングルをしゃべりまくる、というシーンですが、こうした広告の部分はフォント的なずれが少ないため、読者にかかる負荷は小さく、読者はとてもスムースにこの部分を読むことが出来ます。要するにこのWoman’s Worldの、というかさらにいえば後期資本主義的な世界では広告の言葉だけがナチュラルである、というようなことを、このテクストは読者の視覚的な負担の操作を通して力ずくで納得させるのだ、ということができそうです。つまりこの作品において読者というのは、読みの可能性を無限に広げる自由な存在としてではなく、ひたすら物理的な刺激に縛られて肉体で作品世界のエートスを感得する存在としてある、と言っても過言ではないでしょう。

このようにWoman’s Worldの読者は、ポストモダン的読者の軽やかな自由さに対置されるかのように徹底的な不自由と拘束を引き受けることになります。さてそれでは、ポストモダン的には不在化されてきた作者という存在がこの作品ではどうなっているのか、ということを改めて考えてみると、やはりこれもまた壮絶な不自由さと拘束を自らに課すことによって、結果として読者の前に、ほとんど肉体的に自らを主張しているのではないか、と思います。というのも、このつぎはぎだらけの作品を読んでいるとき、おそらく読者が何よりも思いを馳せずにおれないのは、この途方もないほとんどオブセッシブなまでの手作業を行っている作者の姿だからです。引用⑦にあるとおり、Rawleは女性雑誌の切り抜き以外使ってはいけない、という自らに課した拘束の中で、作品の表現がどんどん想像もつかない方向に進み、結果的に自分自身の表現を作ることになった、といっています。⑧と⑨はインタビューのなかでRawleが挙げていた例ですが、当初Rawleが書いたテクストでは “She stormed out of the room” という文だったものがコラージュでは“Red rage rouse within me like mercury in a toffee thermometer and I knew I had to leave before I reached the boiling point for fudge.”に置き換えられ、“That’s nonsense”は “That’s all tosh and table margarine.”になる、というようなことが起こった、ということです。こうした切り貼りの結果として、Normaの声はつぎはぎのフランケンシュタイン・モンスターのように立ち現れ、その声のぎこちなさ、人工性は、作品内ではNormaがRoyの-あるいはこう言うことが許されるならば後期資本主義社会に生きる人間の-「病」の産物であるからだ、というような説明を受け、ある種の痛切なリアリティを獲得します(引用⑥のように)。しかし同時に、やはりフランケンシュタイン・モンスターの後ろにはどうしてもフランケンシュタイン博士の姿を見てしまうのが人間というもので、読者はこのNormaの怪物的な声の、あるいは怪物的な見た目のテクストの向こう側に、それを作り出した作者Graham Rawleの手とそのオブセッションに裏打ちされた強烈な個性をどうしても見てしまうのはないでしょうか。

以上のように、消費社会、コラージュ、作者の不在、主体の分裂、メタフィクション、などなど作品の表面に表れる要素だけをみればWoman’s Worldはまごうことなきポストモダン小説のはずなのですが、蓋を開けてみればどうもこの作品はポストモダン小説とは言いがたいような感じがします。1989年出版の岡崎京子のpinkの中ではいわばあくまで小道具として軽やかに描かれていた「すべてがコラージュによる小説」というポストモダン文学のイデアは、これを実際に肉化するとなると到底軽やかになどなされえるものではなく、Rawle自らの言によれば、彼は1日17時間、1週間に7日で実に5年間という途方もない歳月を費やしてこの作品を完成させた、ということです。けっきょく、この途方もない手仕事の重みというのが、「作者の死/不在」といったようなすでにクリシェと化したタームを覆すような、この作品の見逃すことの出来ない特質なのかもしれません。考えてみればRawleが2005年というこの時代に、これだけのエネルギーを費やしてこのようなポストモダンてんこ盛りの作品を作ったというのは、この作品が結局はポストモダン小説というジャンルの体を張ったパロディなのだということなのかもしれず、そう思えば60年代という時代が作品の舞台として選ばれたのも、この作品がすでに懐かしいものとなったポストモダンを歴史化する、ポストモダンへの哀歌のようなものになっている、ということなのかもしれません、といった胡散臭いまとめをしたところで、長くなってしまいましたが一応終わりにしたいと思います。

10 comments:

Anonymous said...

Nice article, Miss Kishi. Thanks for posting. Woman's World is now at the top of my reading list. Also, if you like Graham Rawle, you might want to check out this animated trailer for his new book, a reinterpretation of The Wizard of Oz.
http://www.youtube.com/watch?v=-rMmPlFWpNQ

-Jarvis32

Anonymous said...

Ditto that. Also, there's this podcast interview with Rawle himself:

-Jill Mayworth

Anonymous said...

"This book is a work of genius," says Neel Mukherjee of THE TIMES.

-Sally Suzuki, Beholdmyswarthyface Media Director

Beholdmyswarthyface said...

Dear Beholdmyswarthyface Readers,

Miss Kishi put a lot of time into this article, so try to make your comments a little more substantive, please. Thank you.

Anonymous said...

「引用①」や「レジュメの②」とかいろいろ言っているけど、それは何をさしているのかよく分からない。別紙は何かあるの?あるなら載せてもらいませんか?何が引用されているかちょっと気になるわ。

ー 松崎美穂

Anonymous said...

Has it been translated into Japanese yet? Or does such a novel defy translation?

-Molly Cessess

Anonymous said...

Ryan,

Forgive me for not writing about this post (I don't read Japanese), but this is the easiest way for me to get a hold of you.

I've been reading the psychoanalytic theories of Jacque Lacan and Slavoj Zizek recently, and i think I now understand Brett's problem(s), which have nothing to do with chemicals, brain deficiencies, etc, but rather with his total detachment from the Symbolic Order (ie, the social sphere). He's among the "living dead" who "dwell outside the Symbolic, . . . persisting only in the madness of the Real."

Go find these books immediately (don't worry, they're short and easy to understand):

This and this.

Your Mother,
Mother

Beholdmyswarthyface said...

Mother, please. This is a public forum.

Anonymous said...

I say this blog is all tosh and table margarine.

-Larry Butdines

Anonymous said...

Noooooooooooooooooooooooooo! Forget about MJ, Karl Malden 1912-2009, we called you cookie, because you were sweet like a cookie, the west was won thanks to you, I coulda been someone, I coulda been cookie.