Saturday, January 3, 2009

On Takahashi Gen'ichirō's John Lennon Vs. the Martians


This just in from Dr. Nabil al-Nasnimi:
Beholdmyswarthyface,

It’s me again, Nabil al-Tasnimi. I have another favor to ask. I have a presentation tomorrow in Tokyo, but I’m still in Cairo, and haven’t the time to prepare anything. The presentation is supposed to be on Takahashi Gen’ichir
ō’s novel, John Lennon Vs. the Martians, and must be in Japanese. I was hoping you could put something together for me. Your services will be remunerated. Thank you, Nabil al-Tasnimi

Sure thing. Here are my notes, which contain several obvious and/or unclear points, some of which you might be able to use in your talk. Feel free to reorder— even rewrite— the thing. Also, you might want to add some specific examples from the novel, as there aren’t many here. Oh, and I should warn you that my point about agency and ideology (inspired by Professor Marc Yamada's talk in Tokyo late last month) is not at all developed, so you might want to discard that section altogether. I hate to hand it over in this state, but this is all I had time to put together. Hope it helps. Regards, Beholdmyswarthyface

はじめに 著者経歴、『ジョン・レノン対火星人』出版歴

1951年に広島生まれ。1981年、『さようなら、ギャングたち』で群像新人長篇小説賞優秀賞受賞。1988年、『優雅で感傷的な日本野球』で第一回三島由紀夫賞。著書に『虹の彼方に』、『ジョン・レノン対火星人』、『ペンギン村に陽は落ちて』、『日本文学盛衰史』など(詳しくはshinchosha.comを参考に)。『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞を受賞。小説の他、文学、政治、競馬などに関するエッセイ、翻訳書など、著書多数。また雑誌連載も常に複数誌 にわたる。

『ジョン・レノン対火星人』(1985)。題目はおそらく、米国歴史学者John Wienerが1982年3月の『New Republic』に掲載した記事、「John Lennon Versus the FBI」に由来しているのではないかと考えられる。本作品の出版歴は以下のようです。

『ジョン・レノン対火星人』は1980年に処女作として群像新人文学賞に応募し落選した「すばらしい日本の戦争」の書き換えだと作者自身が「著者から読者へ」で述べている。1983年に雑誌「野性時代」に掲載し、1985年に単行本として刊行した。1988年に新潮文庫より刊行され、その後、絶版状態になってしまい、そして2004年に講談社文芸文庫によって刊行された。

一  パロディ or パスティーシュ?

この二つの用語の違いについて『コロンビア大学現代文学文化批評用語辞典』は以下のように述べています。「パスティ―シュという概念は、パロディに見られる喜劇的乖離の間隔を伴わない様々なスタイルの模倣を指す。そういったパスティ―シュは、「無表情なパロディ(blank parody)」という特にポストモダン的なパロディの一種である。この用語は「。。。」おもにポストモダンの文化の議論において広く流通することになった。ジェィムソンによれば、パスティ―シュは、自己生成的なスタイルが過去のものとなった時代におけるパロディの結末である。すべてのモダニズムの偉大な実践者たちは、何らかの意味で明確な個人的スタイルの創造者であったが、そのスタイルは模倣されることが可能であり従って暗黙のうちに茶化されるものであった「。。。」そのパロディのかわりを、非パロディ、すなわちパスティ―シュという新しい様式が占めるのである」(307)。これを念頭に置きながら『ジョン・レノン対火星人』はどちらなのかを見てみましょう。

* ヒューマニスト的な読みへの抵抗

まず、この小説のパスティーシュ的な要素について。「明確な個人的スタイル」といったものは『ジョン・レノン対火星人』に見られるのか、それともその発想の可能性が疑問視されているのか。後者だと私は思います。

ヒューマニスト的な読み方によれば、登場人物は人間と同等であり、従って人間と同様に扱うべきものである。道徳観・内面性・自律性などが備えられ、そして精神行動の変化も可能である。

しかし、このような解釈方法に対しては、高橋源一郎は納得しないようである。彼はあえて2次元的なものを登場人物にし、または擬人化された概念、時代、書籍、無生命物にもする。

高橋は「主体」ということについてヒューマニズム的な理解と違うかたちで理解していると思われる。高橋源一郎による主体は「明確な個人性」を有するものではなく、むしろより複雑なプロセスで外の世界と関わっているものである。

* それで、『ジョン・レノン対火星人』はどっちかよ!

先ほど申し上げたように、パスティ―シュは中身をくりぬかれたパロディである。そして中身のないスタイルに過ぎないパスティ―シュは極めて消費も商品化もされやすいものである。パロディと違ってパスティ―シュは政治的な風刺性を欠いている。パスティ―シュにおける文体は、作者自身の個性を表すものでなく、借り物である。パスティ―シュ作家にとっては過去のあらゆる文体は簡単に自分で使ってみることができるし、そしてその過去の歴史的背景や意義を考慮せずに貪ることができる。このような世界では歴史そのものはもはや存在しないで、そしてその表象しか残らない。

* 私小説のパロディ

語り手がポルノ小説家だという点で高橋は小説家とくに私小説家の仕事とポルノ小説家の仕事はそれほど違わないと示唆しているのであろう。つまり、どちらも自己を露出するものである。(もちろん、一方は身体と精神の両方を、もう一方は身体のみを)。(引用:原文13、23、24頁)。

ある意味で高橋はこの作品において「私小説」というジャンルを爆発させようとしているのであろう。自伝的な始まり方をするこの小説は、次第に非現実的な方へと向かって、自己を語るその行為自体がフィクションの上に出来ていると示唆されている。(結末を先に言ってしまえば『ジョン・レノン対火星人』はパスティーシュでもありパロディでもある。)

二 現実界と象徴界の混同

現実とその表象の区別がつかなくなってしまうことがポストモダンの一つの特徴でれば、そしてこの作品の特徴でもある。つまり、歴史そのものが大衆文化に反映される表象と混同される。(ここでいくつかの登場人物の例を挙げてください、例えば日本のすばらしい戦争、ヘーゲル、キリスト、ハイデッガー、本居宣長、云々。)

* つまり、時間性・歴史性の欠如

過去現在のものすべてが歴史的なコンテクストから切断され、同時化される。そして、それらの意義も価値も同等化される。したがって歴史と文化が消費されるものとなる。そしてその世界に生きる我々も、現在のみに取り付き、過去に関する意識・知識を失う。文学と芸術は、ポルノと同じ程度に消費しやすいものとなる。などのことがこの小説に示唆されているのではないかと思われる。「ここでいくつかの例を挙げてください。」

* あらゆる境界が曖昧に

純文学と大衆文学、雅と俗などの二項対立を曖昧化することによって主流な日本近代小説から分離しようとするポストモダン的な小説。

* 平坦さと無深層

ポストモダニズムでは遠近法(ジェイムソンの言葉では“the depth model”)が消滅される。すべてのものは表象、つまりシミュラークラに過ぎず、そしてその表象の原型はどこにも見つからない。ハイモダニズムにおける三次元性は二次元性に変わり、表面の後ろに現実があるという前提が排除された。客観現実や真実が消えたその跡には、イデオロギやナラティヴしかない。

* 感情の消失

感情に溢れた告白的な小説よりも我々のこころに響くのはむしろポルノ小説であると高橋に示唆されているようである。一方、普段は無頓着で無関心である「日本のすばらしい戦争」のように時にして大暴れたりする精神分裂的な傾向も見られる。引用:33.5; 23.9-19;

三 イデオロギーからエージェンシを回収すること

マルクス主義の用語である回収とは「支配的権威がイデオロギー的立場を対抗勢力に譲歩するふりをし、それによって対抗勢力を自分の都合のいい、もっと大きな勢力に組み込むこと。」それからもう一つ挙げたいのは、合併(incorporation)です。合併は、「マルクス主義批評の述語で、反体制的な要素がある程度の自由を認められることによって支配的な権力構造の一部として取り込まれることを言う。政治批評は一般に同様の権力の機能に注目している。たとえば、新歴史主義による権力論では、権力は積極的に転覆的な要素を作り出し、これらの包摂によってその維持を図ると想定している。一方で領有という述語は権力の一元的な支配の確立を強調する場合が多い。」

* 政治や文壇の抑圧に抵抗する文学

まず、批評者による抑圧をどう対処するかという問題が作者に直面してくるだろう。つまり、批評・解釈する側が作者にかけてしまう抑圧からどう免れるのか。文学は批評者たちの支配的なイデオロギーを破るための犯罪であると考える高橋は、敢えて純と俗の境界をぼやかしたり、意図的に拙い文書やプロットを作ったり、そして文壇におけるタブー的なポップカルチャー的要素やポルノや近親相姦などの卑猥な話を取り入れることによって抵抗しうるのではないかと考えられる。(ここで原文16-17頁の引用を挙げてください)。

要するに言語そのものは社会的に共有するイデオロギーであるとすれば、個人として私有できるものはない。しかし、組織的な弾圧に対抗する一つの方法として、高橋はすでに飲み込んでしまったイデオロギーをパスティ―シュ的に吐き戻すのだ。つまり、言語と戦うため同じ言語をバラバラにして使う。言いかえれば、反復とパスティ―シュを武器にして、権力やその大きな物語と戦うのだ。

  おわりに ポストモダンでありながらポストモダンを乗り越えた『ジョン・レノン対火星人』

ポストモダンすなわち後期資本主義に当てはまる要素はこの作品の中にいくつか見られるものの、最終的に、パスティ―シュなどの操作を使いながらも高橋は、エージェンシ、個性、自律性、内面性などの古めかしい概念を取り戻すこともできた。そして、イデオロギーである言語の中に吸い込まれた作者の存在をパスティ―シュによる言説の再配置によって蘇らせたとも言えるだろう。

参考文献

Sim, Stuart. The Routledge Companion to Postmodernism. 2001.
Jameson, Fredric. Postmodernism, Or the Cultural Logic of Late Capitalism. 1991. (6-17).
川口喬一編. 『最新文学批評用語辞典』. 研究社出版. 1998.
スチュアータ・シム編.『ポストマニズムとは何か』. 2002.
ジェイムソン・フレドリック. 『近代という不思議・現在の存在論についての試論』.こぶし書房. 2005.
高橋源一郎. 『ジョン・レノン対火星人』. 講談社文芸文庫. 2004.
『コロンビア大学現代文学文化批評用語辞典』

10 comments:

Anonymous said...

I think I read that novel a while back. Can you remind me who the characters were again?

Thanks,
Jill

Anonymous said...

Here you go, Jill. The main characters are as follows:

『ジョン・レノン対火星人』における登場人物

主たる登場人物

1.「わたし」:語り手。ポルノ小説家。パパゲーノと同棲生活。「すばらしい日本の戦争」と出会い、彼の精神病を治療しようとするが失敗に終わる。

2.「すばらしい日本の戦争」:「花キャベツカントリー党」のリーダ。死体に取り付き、深淵によって苦しめられる。葉書を「わたし」に送り訪問する。気違いでないことが「わたし」に指摘されるが、「気が狂っていることより遥かに困難な問題だった」ことがわかる。

3.パパゲーノ:「わたし」と同性している同性愛者。

4.「ヘーゲルの大論理学」:「わたし」の友人。大阪の精神病棟に収容中に「突発性小林秀雄地獄」を発症する.

5.テータム・オニール (OT):教育学の音楽専門で退学。トルコ#1ホステス。副奥刑務所に拘置されていた。わたしの愛人であり、「すばらしい日本の戦争」にも性交を提供する。刑罰としてクリットラスが切断される。

-Jarvis32

Anonymous said...

Weren't there also like a 1,000 minor characters and/or references to real people in the book?

-Josh Landers

Anonymous said...

Indeed there were. Here are some of them:

その他の登場人物又は言及される人物

* 突発性小林秀雄地獄:
* 少年時代:「わたし」の擬人化された青春時代
* パパ:「わたし」の父親。
* ママ:「わたし」の母親。キリスト教徒。「少年時代」章に登場するママと同一なのか。Riches profit not in the day of wrath; but righteousness delivereth from death (proverbs 11:4)
* 妹:わたしの妹
* 精神科診療室の医者:
* 医者の変な患者:afraid of being eaten by ketchup
* 管理人:「わたし」に女を紹介する瞑想好きな、かみさま。
* 「わたし」の娘:小学校三年生
* 片岡義男:hard-boiled voice
* ジョン・レノン:
* イエス・キリスト:より正確に言えば金子光晴がこれから書こうとしている詩の中に登場するイエス キリスト:
*ニジンスキー:勃起せずに射精できるおかま
* マリア・カラス:オペラ歌手。
* シュワルツコップ:ドイツのオペラ歌手。
* 中島みゆき(1952- ):Jpopの歌手。
* ベッカリーア:
* ブルーノ・ムナーリ
* 斉藤茂吉(1882-1953):詩人。
* エイプリル・ザ・フィフス
* 金子光晴(1895-1975):詩人
* 志賀直哉:
* 北杜夫(1927- ):小説家、エッセイスト、精神科医。斎藤茂吉の息子。
* 落合恵子(1945- ):作家、文化放送アナウンサー。
* 小林秀雄:
* 本居宣長:
* ハイペリオン(1930-1960):米国の競走馬。
* ウィリアム・フリードキン(1939- ):イギリスの映画監督。
* 佐藤正人:
* ヨシフ・スターリン
* レーニン:
* 大島弓子(1947- ):漫画家。
* 中原中也(1907-1937):詩人、歌人、翻訳家。
* 石野真子(1961- ):女優、歌手。
* 野間宏(1915-1991):小説家、評論家、詩人。
* ノーマン・メイラー:
* 高村光太郎(1883-1956):彫刻家、詩人。ファシスト。『智恵子抄』など。
* ハイディガー:
*ジョブ
*アリス
*二人の以前の妻
云々

-Mable Callahan

Anonymous said...

I hope you post a new blog entry fast, 'cause this one sure sucks.

-Barry

Anonymous said...

Don't some people refer to Takahashi's style as the new genbunitchi 新言文一致? You also might want to incorporate Bakhtin’s notions of intertextuality and heteroglossia into your talk, Dr. al-Nasmir.

-Sally Suzuki, Beholdmyswarthyface Media Director

Anonymous said...

Sally Suzuki,
That's al-Nasnimi, not al-Nasmir.

- Nabil al-Nasnimi

Anonymous said...

Hey, now . . . shouldn't you be on a plane, Dr. Nabil al-Nasmini!?

Anonymous said...

You also might want to talk about the 歴史的背景、 for instance the 全共闘 and 全学連, and the 花田空港事件 of 1967 and the 連合赤軍事件 of 1972, no?

-Paola

Anonymous said...

'Member all the scenes where the narrator deduces answers from several possibilities? Given the frequency of such scenes, can't the novel also be seen as a parody of detective fiction?

-Pierre