Monday, July 20, 2009

Katō Shūichi's "Time and Space in Japanese Culture"


This just in from Takahashi Tomoyuki:
加藤周一『日本文化における時間と空間』より 第一部第二章「時間のさまざまな表現」

特に興味を持ったのは前半部である。日本語の「時制」の特徴とそれが物語の文体にどのように現れているか、どのように生かされているか、というのを論じたあたりを特に取り上げたい。加藤の議論を要約しながら、若干の展開を試み、具体的な例に即して論じていきたい。
1. 日本語における時制の問題

 加藤は、ヨーロッパ語と比較して、日本語における「時制」の特徴を指摘する。ヨーロッパ語が厳密で明示的な時制の体系を有するのに対し、日本語は過去・現在・未来を明確に区別しない。

日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度(断定や推量)、〈…〉ということになろう。(50頁)(傍線引用者、以下同じ)

現代日本語のあきらかな特徴の一つは、少なくともヨーロッパ語とくらべて、その文法が、時間線上の前後関係による時間の構造化よりも、時間的に継起する出来事に対しての話し手の反応の表現へ向う著しい傾向である。(50頁)

ヨーロッパ語において、出来事は時間の直線上に厳密に位置づけられる。それに対し、日本語においては、出来事は「話し手の現在の心理的状況」へ引き寄せられる。ここに「客観的時間よりも主観的時間を強調し、過去・現在・未来を鋭く区別するよりも、現在に過去および未来を収斂させる傾向」(53頁)を見出すことができる。
日本語においては、過去・未来は現在に収斂する。この点は加藤氏が引用する『源氏物語』の冒頭に明らかである。
いづれの御時にか。女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより、「われは」と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者におとしめそねみ給ふ。おなじ程、それより下臈の更衣たちは、まして、安からず

加藤氏は、現在の形と過去の形が混用されていることに注目し、以下のように述べている。
語り手の意識にとっては、過去形は対象との距離を強調する。女御・更衣が大勢居たこと(「さぶらひ給ひける」)、そのなかに身分はあまり高くないが、すぐれて時めき給う主人公が居たことは、過去の客観的状況である。そこで何がおこったか。「そねみ」がおこり、更衣たちの不満がおこった。それが現在で叙述されているのは、語り手にとっては強い関心の対象だからである。現在形の動詞によって、語り手の意識は対象に接近する。(55頁)

つまり、この『源氏物語』の冒頭に典型的に見られるように、出来事の叙述には話し手と語られている対象との心理的な距離感が反映される、ということだろう。だが、「話し手の現在の心理的状況」(50頁)が反映されるのは、時間の表現に限ったものではなく、日本語そのものの特質であると言える。
2. 日本語の潜在的一人称性

日本語はそもそも話し手の主観と無縁ではいられない言語であると言われる。この点で参考になるのは熊倉千之の議論である。熊倉氏は「日本語は徹底的に『話し手』の『話し手』による『話し手』のための言語である」と述べる。例えば日本語の形容詞は、ヨーロッパ語とは事なり、話し手の現象に対する反応を表すものとされる。
…たとえば「悲しい」という表現は、話し手の感情がうまく出せているのだが、英語のように〈He is sad.〉という文が日本語ではいえない。英語の〈I am sad.〉と〈He is sad.〉という二つの文は、意味の上では同質だが、日本語の「悲しい」は、話し手についてだけに有効なのだ。(中略)
また、「彼は悲しい」という日本語が文法にかなっているのは、「彼」に対する話し手の感情の表出の場合、つまり「(私にとって)彼(がいま置かれている状況)は悲しい」という意味だから、〈He is sad.〉という英文とは全く意味が違う。(後略)

He is sad.と「彼は悲しい」は同質ではない。英語の場合、彼の心理的状況が客観的に叙述されているが、日本語の場合、「彼は悲しい」と思っている話し手の存在を潜在的に感じさせてしまう。話し手の主観の反映を無視できない。

日本語における動詞・助動詞の形にも話し手の対象に対する態度が反映されているといえる(『源氏物語』冒頭のように)。

このように、日本語には話し手の語っているときの主観が自然と入り込んできてしまう。その特性ゆえに、叙述される出来事は、時間の直線上に客観的に位置づけられるのではなく、「話し手の現在にもち込まれて表現される 」ことになる。この点について、熊倉氏は、川端康成の『雪国』の冒頭とその英訳を比較することで、明快に示している。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. (E. G. Seidensticker 訳)

 主語のない原文に対し、Seidenstickerはthe trainという主語を設定して訳出している。熊倉氏によれば、英訳の方は歴史的客観性のある書き方になっているという。つまり、ここに表されているのは、全知的な視点から語られた過去の一つの出来事だといえるだろう。一方、原文については、熊倉氏は以下のように述べている。

日本語のテキストは、この文章を書いた人が汽車に乗って観察している、「私」的時間を表出していて、この書き手の感性や感情を無視できない。文末の「…雪国であった」「…白くなった」は、前者は急に雪国であることに気づいたときの驚きを、後者はその時点で、暗黒の夜が白くなったという情景の変化を観察する意識の表出だ。

ここに次のような対応関係を認めることができるだろう。

英訳:歴史的客観性のある文章。話し手の存在=0
原文:誰とも知れない話し手が存在。その話し手の発話時の主観が反映される。

原文に表れているのは出来事の単純な報告ではない。出来事は、誰とも知れない話し手の、語っている現在に引き寄せられ、話し手の意識を通って表出されるのである。したがって過去の出来事が叙述されるとき、それは「即時的」(熊倉)な記述となる。

日本語で、話し手が自分を何と呼ぶか、相手を何と呼ぶか、という問題を扱っている。そこには話し手の立場、相手との関係性が反映される。
3.日本語の物語の文体、時間の表現

加藤は日本語の物語の文体について論じている。過去・現在・未来を鋭く区別しない日本語は、過去形と現在形の混用を可能にする。作家はそうした特性を利用して独特の文体を作り出してきた。だが、日本語の特性の利用あるいはそれとの格闘は、過去形と現在形の混用というレベルを超えて文体に反映されているだろうし、時間設定、時間構造にも反映されているだろう。自分で見つけた例をあげ、日本語の散文における時間の表現を見ていきたい。
新橋を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴が、霧とまではいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。葉子は平気でそれを聞いたが車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋という街の角の宿屋を曲って、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入口の大戸を閉めようとする駅夫と争いながら、八分がた閉りかかった戸の所に突立ってこっちを見戌っている青年の姿を見た。(有島武郎『或る女』冒頭)

・ 第一文、主体が明示されていない。
・ 「新橋を渡る時」 いきなり即時的な表現をとっている。
・ 「聞こえて来た」 聞いている存在を必ず感じさせる表現。
   英訳とは対照的。… a bell rang out from the station,…

→過去の個人的な出来事として語られていない。共同性のある表現となっている。即時的な表現に徹して、読者を否応なく「物語の現在」に引き込む。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。

私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲った急な坂道を駆け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。(川端康成「伊豆の踊子」冒頭)

・ 冒頭から即時的な表現となっている。理屈で考えれば、過去の出来事を経験者の「私」が回想しているということになるが、過去の出来事を語っているようには感じられない。
・ その発話時の「私」は無色透明な存在となっている。話し手は「そのときの私」に同化→即時性が生じる。
・ 二段落目の事実関係の説明も即時性を壊さないように書かれているようである。 
例)「私は二十歳、…」 「私は二十歳だった」とは言っていない。発話時と「物語の現在」に距離を感じさせないための工夫ではないか。

→川端は「物語の現在」に即して出来事を叙述している。
川端「伊豆の踊子」
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。

・ 下線部のみ動詞が現在の形。臨場感が生じている。

※これは「歴史的現在(historic present)」か?

 加藤氏の指摘するとおり、現在の形と過去の形の混在は日本語の特徴だが、ヨーロッパ語においてもあり得ないわけではない。「歴史的現在(historical present)」というレトリックを用いた場合、結果としてその周辺の文章には過去形と現在形が並立することになる(もちろん、日本語よりもはるかに組織立った形ではあるが)。加藤氏が引用している『平家物語』の一節は、形の上では歴史的現在に近いように思われる。ヨーロッパ語における修辞技法「歴史的現在」と日本語の同種の用法を比較してみるのも面白いだろう。ただし、以下で取り上げるのは個別の事例であり、一般化するのはもちろん危険である。日英比較の先行研究もいくつかあるようだが、ほとんど未読であり、この問題を包括的に論じることは自分にはできない。ここでは思いつき程度に触れたに過ぎない。

・歴史的現在の定義

現在、眼前に行なわれている物事はわれわれにとってもっとも生き生きとしている。描写の一つの技巧として、過去の事柄でも、あたかも眼前に行なわれつつあるかのように描くことがある。これは感情移入の一つの技法であるが、このように現在形をもって過去の事を表す場合、これを歴史的現在あるいは史的現在(historic present)という。ブルークマンは、これを劇的現在(dramatic present)とよんでいる。

つまり、過去の事柄を現在形で描くことで、それがあたかも眼前で行なわれているかのような劇的な臨場感を生み出す、ということだろう。話し手が過去へ移動するか、あるいは過去が現在に移されるか、という二通りの考え方があり得るが、いずれにせよ、そこには時間軸上の移動があり、それが生き生きとした感じを語りに与えることになる。ヨーロッパ語で出来事が時間の直線上に客観的に位置づけられる以上、その移動は劇的な臨場感を伴うはずである。

・ 英語の歴史的現在の例
If the funeral had been yesterday, I could not recollect it better. The very air of the best parlour, when I went in at the door, the bright condition of the fire, the shining of the wine in the decanters, the patterns of the glasses and plates, the faint sweet smell of cake, the odour of Miss Murdstone’s dress, and our black clothes. Mr. Chillip is in the room, and comes to speak to me. (Chapter IX)
もし葬式が昨日のことだったとしても、これほど鮮明には憶えていないだろう。ドアから入ったときの、上等の居間のあの雰囲気、暖炉の火が赤々と燃え、デカンターにはワインがきらきら輝き、グラスやお皿の柄、ケーキのほんのりと甘いにおい、マードストンの姉さんの洋服やぼくらの喪服のにおいだとかいったものを。チリップ先生が部屋にいて、近づいてくると、僕に話しかける。

デイヴィッドが少年時代の母親の葬式を回想する場面である。葬式中の出来事が現在形で叙述される。
『デイヴィッド・コパフィールド』は一人称の回想形式で書かれている。作家である語り手が、自分が生れ落ちてから、作家として成功するまでを一人称で語る。発話の時間と語られる出来事の間には現在/過去という明瞭な区別がある。それゆえに、動詞が現在形に変わるとき、過去の出来事が現在に移動してくるような臨場感を与える。あるいは話し手が過去に移動して語っているかのような臨場感を生み出す。

「伊豆の踊り子」は基本的に「~た」「~していた」で終る文章で綴られているが、この一節だけは例外で、「~している」「~だ」という形が出てくる。形式の上では歴史的現在に似ているし、「突然」という副詞と相俟って臨場感を感じさせるのも確かである。だが、これはヨーロッパ語の「歴史的現在」と同質であるのか。

すでに論じたように、語られる出来事は過去に属するが、過去のものとして語られているようには感じられない。出来事は、この冒頭からすでに「話し手の現在」に引き寄せられている。川端は徹底して「物語の現在」に即して叙述しているから、この場合「話し手の現在」=「物語の現在」である。つまり、動詞の形が「~していた」であろうが「~している」であろうが、語られる出来事は話し手にとっては同じ時間に属しているはずである。したがって、動詞の形が「~している」に変わっても、そこには時間の移動はない。

では何が起っているのか。ここにある臨場感はどのようなものなのか。単純に、話し手の出来事への没入度が上がったことを表しているのではないか。ここで加藤の議論が参考になる。「語り手の意識にとっては、過去形は対象との距離を強調する。…現在形の動詞によって、語り手の意識は対象に接近する(加藤、55頁)」。

現在の形をとることで、話し手の意識が対象により接近する。それによって即時性が増し、臨場感が生まれる。「叫んでいる」「真裸だ」という形で表現されるのは、出来事が起こった瞬間の話し手の驚きである。ただ「突然」という副詞が示しているように、そもそも語られる出来事自体が瞬間的で劇的なものである。したがってその出来事を現在の形で叙述するのは、「物語の現在」に即して語ろうとする場合、むしろ自然なことと言えるのかもしれない。

(付記)なお以上の議論は、特に日本語の潜在的一人称性に関して、国文学の安藤宏先生の講義に多大な影響を受けていることをお断りしておく。安藤先生の講義は、非常にスリリングで興味深く、知的興奮に満ちている。

7 comments:

Anonymous said...

Are there really no "past" "present" and "future" tenses in Japanese? What about tabeta, taberu, and taberu darou? Don't those qualify?

-Josh Landar and Takae Suzuki

Anonymous said...
This comment has been removed by a blog administrator.
Anonymous said...

ありがたく拝読させて頂きました。

「日本語は徹底的に『話し手』の『話し手』による『話し手』のための言語である」

これ、自己中心的なようでいて責任転嫁を全うするどこぞの烏合の衆を思わせます。
主と他の紙一重の差さえ埋め尽くすほどにほとばしる感情を言い表すことができるのはありがたいのですが、どうも一体化を求める詭弁なナルシスト気分で毎日をルンルンしています。かしこ

-Hiroko

Anonymous said...

Hiroko,

ご感想ありがとう。たしかに日本語の潜在的な一人称性は日本人によくあるとされる責任転嫁とは関係なくはないかもね。

ーSally Suzuki, Beholdmyswarthyface Media Director

Anonymous said...

ひろこさんのコメントはよくわかりません。こう言うのは失礼だけど、めちゃくちゃな日本語だと思います。

ーRobert Okada

Anonymous said...

恐縮、至極。
-Hiroko

佐々木 said...

和敬塾事務所の佐々木です。
メールもしましたが、数年前のアドレスなので届くかどうか不明につき、こちらにも書き込みます。

このたび、和敬塾で、熊倉千之先生と日本文学を精読する講座を始めます。
7/27(月)20時、和敬塾学生ホール2階の第3教室です。

テキストも準備しているので、一度連絡もらえますか。よろしく。